December 31, 2009

暮れ

今年も紅白を見つつ夜が更けて、年越しである。そばはもう食した。勿論沖縄そばである。年越しそばで日本そばを食べたことがない。

一年を振り返ろうかと思ったけれど、振り返っても特に大きな変化は何も無かった。
基本的には引きこもっていたので、日常が淡々と過ぎていったし、本もさほど読めず、時たま沖縄への来訪者と酌み交わした。仕事量だとか会う人の数だとか、飲む酒の量だとか読む本の数だとか、非常にスローダウンした一年だったと思う。しかしその分テレビにはよく接した。
体は休めたけれど、弱った。元々やわいけれど、さらにやわくなった。体重は3キロくらい減って、身長は1センチくらいのびた感じがする。頑張る。

ああ、そういえばWeb上での活動としては、ブログを引っ越しました。お手数をおかけしました。そしてついったーを始め、そして特に頻繁にはつぶやかず、Google readerを使い始めては埋もれたり。あっという間に未読が1000+になってるのです。

ぽつりぽつりと考えたことを書いていったり、誰かの言葉をメモしたり、日常を書き留めたり、気ままに更新しておりましたが、温かく見守ってくれてありがとうございました。コメントありがたく拝読しているので、異論反論間違いの指摘等今後ともよろしくお願い申し上げます。

来年の目標は、断酒です。ハードルかなり高めですが努力します。

December 29, 2009

memo:091229

「我思う、ゆえに我あり。であって、汝思う、ゆえに汝あり。とは言ってないということ」

クオリア追記

追記(2009.12.29)

考えに言葉が追いついてなくてひどい文章になってしまったので直そうと思っていたけど、時間をとれないままにコメントつけてもらったので、コメントとエントリとの齟齬が生じないように追記にした。
先のエントリはここ:クオリアって

前エントリで、私は「感情」と「クオリア」を大体同じ意味合いで使っていた。
で、物理主義の人々はその「感情」「クオリア」を、単なる脳の化学反応やらなにやらの作用のため生ずる現象であると前提していると、私は思っていたのに、
先のリンク先の書き方からすると、そういった作用とは別に、精神的なといいますか物理世界とは別に、「感情」や「クオリア」というものを観念しているように見えたから、それって矛盾してないのかなと、思ったってことだ。

同じサイトに、誰かが質問をしていて、その人は、
「エンジンをどんなに分解しても、『走る』という現象がでてくるわけではない、ということと同じで、脳をどんなに分解しても『クオリア』が出てこないってことじゃないでしょうか」
と言っていたのだけど、私もそんな気がする。
で、別に「走る」が出てこなくても、みんなあんまり不思議だって思ってないんでしょ。
しかも、エンジンを分解しても「走る」の起源がわからないから解明できてないとは言わないだろう、と。

つまりその「感情に意味なんて無い」と言った人は、我々は電気信号とかによって動いていて感情もそうで単なる現象にすぎない、ということを言ったのだと思う。ある意味、我々はゾンビである、と言っているように聞こえたということ。だからその感情が残ったりもしないし、死んだら無かったも同然になるのだと冷め切った感じで言い放った、ために私と口論になったりしたわけである。耐久性の無いSDカードみたいだ。
それで私は、たとえそうであっても、他人がそう思っていても、自分が感情に意味を与えて意味があると思って生きていればいいや、と思うようになっていった気がする。私の個人主義である。


確かに、私の周りにいる誰かは「感情」なしで動いているのかもしれない。というかある程度違う「感情」で動いてるとは思う。その差異って、程度問題であろうと思う。出た。程度問題。
あと、外見ではそれがわかんないけども別段支障ない、ということ。でも結局、感情というかそうしようという気持ちが無ければ行動が難しいようになっている(少なくとも私という脳の構造はそうなっている)のでやっぱりそれを「感情」と呼ぶかどうかは別にして、そういう作用が脳内で起こってなければなかなか難しいのではなかろうか(「感情」の定義問題)。
この、外見でわかんなければいいじゃない関連はここで書いた。
dioramic:内心と行動の一致・不一致について思うこと


でもこう考えると他の人って、ある程度ゾンビっぽい気がする。得体が知れない、理解できないという意味で。

もしかして他の人に自分の脳内の声が聞こえてるんじゃないかって思ったことはあるな。サトラレ。
トゥルーマン・ショーもそんな感じだよな。

将来的に、脳の仕組みとか結構わかって、考えてることとか思ったこととかを取り出せるようになったら、献体みたいに脳を差し出したりして、その人の考えたことをいろいろわかるようになったりするのだろうか。
今ここで書いてる文章も、脳内の開示なんだろうけど、都合のいいことしか開示しないからな。よく知らない人に告白されたことが昔むかしあったのだが、そういう時って、デューディリしなくていいんですか、と言いたくなる。まあ対価は時間とプライドくらいだからそんなに調査しなくてもいいんだけど、って、結婚相手を親が調査するとかいうあのドラマに出てくる風の話ってまさに軽いデューディリだけど、そういうのじゃなくて人格的にというか。

December 28, 2009

クオリアって

ご近所のサイトで出ていた、「哲学的ゾンビ」なるものの話。
そこにわかりやすい説明のサイトとして挙げられていたのでリンクしておく。

哲学的な何か、あと科学とか:ゾンビ問題

ここでいう「哲学的ゾンビ」とは、
見た目人間だけど、脳という機械である反応をしているだけで、クオリア(体験とか質感を感じること)なしに行動している者
のこと、らしい。わかりにくかったら上記リンクへどぞ。

なぜこれが「哲学的」なのか、よくわからないのだけど。
それってなんというか、当たり前じゃない?って思った。いや自分はそうは思ってないのだけど、ある一定数の人々、つまり物理主義というか科学教というか、そういう人々はそう思っているのだと思っていた。


というか、私は数年前、
「感情に意味なんて無いよ。全ては化学反応と電気信号だから」
的なことを言われたのだけど、そう思っている人々は皆、「我々は皆、このいわゆる『哲学的ゾンビ』なんだよ。だから感情とか、脳が作ってるだけで、意味とか無いよ」って言っているのだと思っていた。そういう言葉があること自体は知らなかったけど。

大体この、クオリアってのは何だ。それこそ脳の作っているものではないのか。
その「意識とか主体的体験」とかいうものそれ自体が、脳の作ってるものだという立場ではないのか君たちは。と。わざわざクオリアというものを観念すること自体が、その物理主義と相反しているのではないか?それ物理以外の何かを認めてるでしょう。

と、その上記のリンク先に対しては思う。


で、関連してクオリアというものが脳の働きの分析によっては解明し得ないという点(と同じサイトに書いてあったので。ここ。)。
これ茂木さんが言ってるなあとは思ってたけど敢えては読んでいなくて、よく知らないのだけど、この人は、脳の分析をしても、クオリアを感じた時にどういう化学反応が起きていたということはわかっても、そのクオリアの起源がわからないから「解明できない」、と言っている。
それって、その化学反応なのか電気信号なのか部位なのかわからんけど、それがわかったということが解明な気がする。
これ前のブログで書いた、「なぜ」には2つの違う意味がある、っていう話だと思う。「なぜ」には「原理」を問うているときと、「目的」を問うているときがある。つまり、「どのように」というときと、「なんのために」ということ。で、先の脳の反応を解明するのは前者にあたるわけである。
後者の「なんのために」は、これはわからないとしかいえない。なんのために生まれてきたのか、とかと同じレベルでわからんことである。というかそもそもその「目的」が存在すると言う前提自体が、「目的」をもった者の存在を肯定していて、物理主義と反している気もする。や、わからんけど。


関連して、最近私は物理とどう関係しているのかはわからないけど、脳の中だけではないなと感じるようになっている。心的なもの、魂的なものがあると思う。それが巡ってるのか一回こっきりなのかはわからないけど、あるっぽいなーと思う。

この前「くるりくるり」とかいうエントリで書いたけど、植物とか虫とか、脳無いけど生きてるし、しかも死ぬし、その生きてる時と死んでる時っていうのの差が魂的なものの内在か否かのような気がしている。
そんなの信じないぞ、というのが流行りだったし、逆に思いっきりスピリチュアルなのも流行ってるけど(そしてそれを食い物にするのは本当にどうかと思うけど)。


かつ、「違うけど同じ」というエントリにもつながる。脳とか体とかの差が今の我々の差であって、それが違い、なのだけど、根本的に体を取り去った後に残る魂的なもののレベルでは多分優劣ほとんどないのではないだろうかと思うに至っている。
そうすると、環境や体のレベルでは生まれつきという自分ではどうしようもないけど、魂レベルでは平等なのかもしれないなどと思うのである。やっと境遇の違う人たちと同じフィールドに立てそうな気がしてきたのである。


で、クオリアってなんだ。何か読もうかな。

December 26, 2009

Fit

昨日はクリスマスである。
クリスマスイブの夜、その前日にクリスマスパーティ自体は終えた我が家の夕食はゴーヤーチャンプルーで、おやつには煮干しばかりを食べ、クリスマスはおだやかに過ぎていった。
それでもクリスマスイブの夜にはやっぱり、昔サンタさんが来るのをわくわくしながら眠った時の気持ちを思い出す。思えば遠く来たものである。テクマクマヤコンとかやってたのである。ティモテ人形をもらって嬉しかったのである。妹のシルバニアファミリーに嫉妬したのである。
今年は全く静かなクリスマスだな、と思った。なんだか神妙になった。


その翌日。昨日。クリスマス当日。
家で寛いでいたら、妹がなにやら妙なテンションで帰ってきた。
「たっだいまー♪」
という具合である。
ちなみに普段妹は疲れきって帰ってくるため「・・・ただいま」くらいのテンションである。

飲みつけない酒でも飲んでしまったのかしらと思ったが、そうではなくて手に大きな箱を2つ抱えている。曰く、「忘年会で当たったんだー」。

「最初はね、当たったのPS3だったんだけど、交換してもらってきちゃった」というちゃっかりした妹の持ってきたのはWiiとWiiFitであった。素晴らしい。PS3も欲しかったけどWiiはみんなでできるもんね。
ゲーム機というのは、今となっては買える金があってもプライオリティの低いものである。
クリスマスイブにゴーヤーチャンプルーとは、と不憫に思った神様がくれたクリスマスプレゼントに違いない。


妹のいる会社は、経費をすごく切り詰めてる割にイベントが派手で、この前も会社(と生徒。専門学校である。)みんなで奥間のリゾートホテルに泊りがけで行ってたし、忘年会もホテル、ゲームの商品はテレビという具合なのだそうである。5位くらいでおそらくBINGOしたのであろう。
これが10年前の私であれば、飛び上がって喜びトリセツに飛びつくところだが、もう26である。そんな子供じみたことはしない。穏やかに喜び、穏やかにトリセツを読み、さくっと接続する。まあ、あんまり10年前と変わらない。この手の機器類は家族の誰も不得手としていて(文系家族)、結局私が接続するまで誰も手を出さないのである。しかし私はやる気の問題だと思う。是が非でもゲームをしたいという心意気だと思う。ひかりTVの時もそうだった。まあいいや。


そしてWiiFitに興じ、各々、目標設定を完了した。
途中、WiiFitボードが逆向きだったというハプニングもありつつ、私は2週間以内に+1キロ(筋肉で)を目標とした。BMIで標準の域にすこし足りないのである。しかし1キロの中身が筋肉か否かはわからないのが難点である。


近頃胃腸がとみに弱り、家人より食事制限を課されている。クリスマスケーキも禁止(生クリーム)、乳製品禁止、肉禁止、揚げ物禁止、冷たいもの禁止である。ヤクルトも飲めない。昨日はみんなが焼肉で私は鮪のソテーであった。焼肉がよかった。焼肉とかもう何年も食べてない気がする。母の気遣いに感謝するも、悲しい。
このままでは正月に餅を禁止される憂き目にあいかねない。正月に餅禁止などなんとむごい仕打ち。
とりあえず、忘年会の飲酒を控える所存。克己。

December 23, 2009

ワセダ三畳青春期

ワセダ三畳青春記 (集英社文庫)/高野 秀行
読中。

面白い。早稲田に住んでなくともわからなくない。
三畳一間のアパートとはよく言ったものだけど、それだけじゃなくて、起こってるエピソードが面白い。
そして11年間そこに居つづけ、世界を旅し、7年間大学生をしていた筆者になんだか励まされる。

その本の話を少しすると、いつもの永い人は(なんかやたら沖縄にいるのだ)似たようなエピソードを語ってくれて。無断転載。


彼は、「衣食足りて礼節を知る」という言葉から、「住はもしやいらないんじゃねーの」的なことを思い、「俺は住を放棄する」と高らかに宣言し、賃貸借契約を解消してしまった。多分22歳くらいの時だ。
そしてしばらく公園とかファミレスで夜を明かしていたが、季節は冬、風邪を引き、さすがに「住は必要だ」と思うに至り、大学近くの不動産屋に入って「安いやつから順番に見せてくれ」と言った。
最初に連れて行かれたのは一階に老夫婦のいる下宿。一階部分は6畳。至近距離にねぎを刻むおばあさんがいて、不動産屋さんが「こんにちは」と言うも何故か完無視。二度言うも完無視。「今日はダメみたいです」という不動産屋さんをせきたて、二階に上がると、6部屋ある。つまり1部屋1畳。「1万6千円です」。それで、やめたらしい。
結局彼は4畳半の部屋に住んでいたが、風呂もなし、寒さが厳しいので暖房に光熱費がかかり、ある日銭湯代と光熱費を計算してみたら6万を超えており、それでなぜ世の人々が6万も7万もする部屋に住むのか実感をもって納得がいった、という話。
でも結局そこに2年住んでたという話。

それ本とかにできますね、と言うと、早稲田なんてそんな人いっぱいいるんだよ、との答え。確かにそんな気もする。私の周りにいなかっただけか。


あとはひどい先輩の話も聞いたがそれも面白かった。ひどかった。
麻雀やってて彼女を2時間待たせて、待ち合わせ場所に行ったが、もうパチンコの時間だったので彼女に「5千円貸して」と言ってすぐに立ち去ったとか、彼女の実家に住みついてぷらぷらしていたので彼女の父親が心配して職をあてがったところ、就職してすぐに彼女と別れるなど、あまりに自由すぎる。
それで私が嫌だと思っていたまちがって付き合ってしまった人も、そんなにひどくなかったのかなと思える次第。上を知るのはいいことだ。


それでなんだか楽しくなった。いい本です。

December 20, 2009

Japan:船員「皆さんもう飛び込みましたよ」

クリスマスである。

クリスマスって、毎年散々批判されつつも結局、みんな結構無批判に祝ってるものみたいで。

そして先日ついったーで見たカップルの会話(もうすぐクリスマスだから別れたくないってやつ)見て更に思ったのだけど。

よくよく考えるとクリスマスってなんでこんな恋人と過ごす日みたいになってるの。チキンとケーキ食べる日みたくなってるの。雰囲気?バレンタインもそうだけど。
イエス・キリストの誕生日だからお祝いするのだよ。2日前の天皇誕生日はそんなことしないじゃないみんな。いいのか。建前上いいのかそれで。天皇誕生日をケーキとかご馳走とかで祝う家庭とかカップルって聞いたこと無いんだけど、あるのかしら。国旗掲げるおうちはあるよね。

そして私もまた、そういうものだと思っていたわけで。普通に恋人とケーキ食べたりお台場行ったり横浜行ったりしたわけで(いずれも先方の希望)(いずれもカップルだらけ)(お台場に住んでいた友人が当日になって「今日お台場では恋人がいない人には人権がないから家から出られない」という理由で飲み会をキャンセルした)。

慣習というのは不可思議なものだ。
皆がそうだから、というのは結局ものすごい動機たりうるのである。結局。

くるりくるり

この前、庭の雑草を抜いていて、ふと、これ抜いた瞬間も生きてるよなあと思った。
林檎を齧って、ふと、この林檎って瑞々しいけど生きてるのかなと思った。
花を切って活けている時花は生きているのか?
植物とか昆虫って脳ないのになんですごく普通に生活を営んでいるのか?彼らの中にあるのは何だ?生きてる時と死んでる時の違いは何だ。
人が死ぬのはいつなのだ。

とかいうことをよく思います。

そして、ああ巡ってるなあと思います。
マクロで見ると結局ずっと生きてるなあと思います。
壮大な環のひとかけらを担っているわけです。
精神世界にまで思いを馳せるならば、有機交流電燈のひとつの青い照明なわけです。ひかりはたもち、その電燈はうしなわれ。

December 16, 2009

お金持ちになるということ

お金を稼ぐって、お金を他の人から奪うってことなんじゃないのと急に思い立つ。何かと引き換えにせよ、一応。
お金持ちになりたいという願望は、他の人々からお金を巻き上げたいってことなんじゃないのと。


でもなぜお金持ちになりたいのかと聞かれて、お金をつかってより良い生活をしたいからだと答えるならば、それはお金をつかいたいからってことだから、それすなわちお金を他の人に渡したいからだってことになるな、と。それなら奪って渡すってことで、とんとんなのかしらと。

つまりは「たくさんのお金が自分を通っていくようにしたい」と思っているのか、と。1得て1渡すよりも、10得て10渡したいというか。それが100なり1000なりになればbetterというか。

たくさんお金を稼ぐ方法は数あるけれど、大抵何かしらの価値を相手に提示してその対価としてお金をもらう(株とか為替とか遺産相続とか、なんか違うのもあるけど)。そしてお金を使うのもまた価値に対して今度は自分が対価として払うのである。
そうしたら、「たくさんのお金が自分を通っていく」ということは、自分にも周りにも多くの価値を生むことを要求しているということになる。自分が大きな価値を出し、別の大きな価値を買う。そして世の中はカチに溢れる。勝ち。


カチカチ言い過ぎだよと思っているし(自分含め)、みんな厳しすぎるよねと思っているので、せめて私は「人に甘く自分に甘く」を座右の銘として掲げているわけで。人に厳しく自分に厳しくなんて、なんだか不幸な気がするのです(なので着信拒否などという厳しい沙汰は取り消さなければならないのかもしれません)。
価値の亡霊。価値観の違い、なんてさらっと違うのが当たり前のように言う一方で、価値が普遍固定のもののように扱われたりする。かなりアバウトに使われてる言葉だと思ったり。


余談。
カネ、カネというけれど、カネは道具だから。
金本位制ってあったけど、つまり貨幣は金に交換できるという保証があるから安定するって話だけど、でもよくよく考えてみれば、金に交換できるよって言われても交換したくないよなあと思って。金持ってても何も楽しくないもの。金、食えないし。金の価値ってどれだけなのか?普遍的なものっぽく設定してたみたいだけどそうでもなくないか。まだ米とか小麦とかマイケルの音楽とかの方が汎用性ありそうじゃないか。まあ昔の話だけど。
今って紙幣自体に価値があるって考え方なんだね。銀行券は、株券や手形みたいな有価証券とは違う扱いなのだね。でもどう考えてもあの紙自体に価値があるというよりは、何らかの価値を表章していると考えた方が自然な気がする。米1キロ引き換え権分とか。


今日はこんなところです。

December 15, 2009

飲み込め

怠惰シーズン中。ダウナー。

食べるのすら面倒なのに、忘年会とか行けるのか。
年を一緒に酒で飛ばして忘れるほどの時間も共有していない人たちとの忘年会。

忘年会って会社にしっくり来る気がする。いろいろあったけど、叱ったり叱られたりミスったりほんといろいろあったけど、水に流してまた来年よろしく的な。会社というか組織というか。嫌なこともあるけど互いに必要とするから。
友達とは滅多に嫌なこと無いもんな。友達との忘年会は、年末を理由にした飲み会だな。ふむ。

世界は広いから、苦手なものから逃げていられた。けどこれからもそうできるかどうかはわからない。
「落下する夕方」で華子が言ってた。逃げるのは苦しいと。早くゲームオーバーにならないかなあって思っていたと。
ああ、いつか逃げることについて書こう。逃げるというのは何かしら深い気がする。直感的に。
「逃げる」という言葉の罪悪感、格好良さ、終わりのある感じ、ツケが回ってきそうな感じ、危うさ。螺旋。追っ手。守るもの。
鬼ごっこが嫌いだった。逃げるのが苦手だった。あの苦しさ。鬼の方が楽だ、あの遊びは。

以上。

December 14, 2009

違うけど同じ

BSつければ韓国ドラマという具合の今日この頃だが、我が家でもいくつか見ていた。
というか私が東京にいる間に家族が見ていた。冬ソナ以外は時代劇が好きらしい。で、その中にNHKでやっていた(今はBS TBSでやっている)「チャングムの誓い」というドラマがあるのだが、これは私も結構好きで。その中で、主人公が子供時代に女官見習いをしている場面が出てくる。見習い仲間の中には意地悪な子もそうでない子もいるのだが、その時は皆一応、横一線で。しかしその後運命の波が翻弄し、敵同士になったり、ある子は側室になったりで、同じ宮中にいても全然違う人生を送る。皆一緒だったのに全然違う人生を歩むんだよね、と母と妹と話していた。


似たようなことを、新生児室でたくさんの赤ちゃんを見てて思った、と母が言った。
生まれた時は、皆同じ産着を着せられてて、同じ時間に母乳をあげて、同じような透明な箱に入れられて並んでるんだけどね、それぞれが退院して家に帰るっていうときには、ある子は本当にお金持ちのお家で、家族が迎えに来て、すごくかわいらしい服を着せて大事に大事に連れて行かれたりするし、ある子はお下がりの産着をささっと着せられてお母さんだけでぱっと連れていかれることもあるし、もう本当にその時からそれぞれ違う人生を歩むんだなあって思ったんだよね、と。

そうよなあと、思った次第。

妹は、最近告白していたのだけど、中学生くらいまで、みんなは自分と同じ気持ちなんだと思っていたらしい。その感覚はよくはわからないのだけど、曰く、「今日は曇ってるからみんなももやもやした気分に違いない」とか「今日は体育があるからみんな楽しい気分に違いない」とか思っていたらしい。
もう一人の妹が最近告白していたのは、「小学生の頃、誕生日が同じだと血液型も同じだと思っていた」というもの。そして彼女は未だに干支が言えない。

意外と違うんだよね。人って。
一緒だと思ってると、驚く。小さい頃というのはそういう驚きの連続だったような気がする。段々そういう驚きは減っていくけど、それは多分似たような人が集まっていくからじゃないかと思う。コミュニティにしても学んでいるものや就職する業界にしても。最初はそういう共通項がないまま、同じ地域というだけで集まった集団の中にいるから、合わないのかもな。

沖縄のために何かしたいって思ってきたんだけど、実際東京から帰ってきてみて、昔のこと思い出したり妹たちの話を聞いたりして、別に特に沖縄の人々が特に好きって訳でもないなと思い、ていうか学校でいじめとかレイプとかの問題を起こす子達なんかはかなり嫌いだったしなと思ったりして、モチベーションが下がったことがある。そんなのばかりとは言わないが、一定数いる。そんなのよりは、東京で頑張ってる人たちの方が好きなのである。
とか思ってしまう。でも理解してみたいとは思う。あまりに理解できないけど、もしかしたら同じ人間だから、理解できるかもしれない。少なくとも、尾崎豊が理解できないのは、理解してみたいと思う。太宰を弱者と切って捨てないこと。

人間、違うんだけど、ある意味同じだと思いたい。
何かは同じなはずというか。

デーツ2件

立て続けに院の友人とデートする機会があった。意外と皆さん沖縄に来るのだ。

一人は雑談王の人。久々に院時代に戻ったような既視感。場所は違えど、全く同じ感覚。
しかしとにかく素晴らしい雑談スキル。雑談以上でもなく以下でもない、ポジショニングの妙。
雑談というのは人によると、ネタがなくなってきて単なる言葉の発し合いのようになったり、探りあいになったり、思い出話になったり、口説きになったり、自慢話になったり、経験の告白になってみたり、つまり異質の何かになるということがままあるのだが、彼と話している時というのは全くそれらにならない。雑談以上でも以下でもないというのはそういうことである。
どうでもいい話をさらさらと流しながら穏やかにハイな状態のまま楽しく散策やお茶をする。彼の偉大さはそれができるというところにある。ある意味無欲というか。深入りしないというか。むしろ雑談それ自体のみを愛しているのではなかろうか。ある意味貪欲ではある、雑談に対する飽くなき追求。なぜ彼があんなに記憶に残らない話を何時間も続けられるのか、一度分析してみたい。彼と話をした時間というのはもう何百時間、いや千時間以上だと思うのだけど、記憶に残っているのはUFOに詳しいらしい、くらいのものだけである。重要な示唆を得たこともないし(これは私の側の問題という可能性もあるが)、ゆえに惚れることもない。

残念ながら、誰も彼に恋愛感情など抱けまい。彼は常に女子に取り囲まれていたが、浮いた話は聞いたことがない。皆彼をマスコットと認識していた。後援会もあったわそういえば。しかも入ってたわそういえば。


もう一人は同い年の、常にモデルのような体型を維持している女の子。しかし気さく。
沖縄で会うのは初めてで、かつかなり久しぶりにもかかわらず、やっぱり既視感。会話の雰囲気が全然変わらない。沖縄料理をつまみながら、ここは馬場か早稲田かという風情。
そういえば、サシで話すことが多い。ある女の子とは、サシ飲みするか、という時に、互いに「サシ飲みやって話すこと無かったらどうしようか」と心配する感じだったのに、この子とはかなり自然にサシ飲みする。飲みというか語らいというか。サシがしっくり来るというか。
私はどうも女の子相手だと気を遣う。男の子には気を遣わない。社長とかなら気を遣う(けど酔ってくるとやっぱり遣わなくなってくる)。でも彼女に関してはあまり気を遣わなくて済む。彼女が自然だからだと思う。気を遣ってると思わせない感じ。

就職の話、ブログの話、めんどくさい人の話、等々。
めんどくさい人というのは、私が生まれて初めて着信拒否した人で、皆に共通してめんどくさい人なのだけど、たまにその人の隣に住んだり自転車を借りたりできるという猛者(女子)もいて、先のエントリにも書いたようにめんどくさいことが嫌いな私は感心する。
めんどくさいことというのは往々にして、それをこなすといいことがあったりする。
飲み屋でおじさんに絡まれたときに、上手に相手をしてあげると飲み代がタダになったりする(先の猛者にはよくあることらしい)。そういう。どっちをとるかで、私は確実にめんどくさいことから逃げるタイプである。飲み屋でおじさんに絡まれたら速攻で帰る。だってめんどくさいじゃん!飲み代タダとかいっても、そういう商売の人に比べたら安いじゃん。
多分彼女もめんどくさいこと嫌い派だと思う。めんどくさい人について、今や寝癖の段階で苛っとくるらしい。わかる。超わかる。

そういえば、先の雑談王が会った直後におそらく買ってくれたのだろう本が送られてきた。
親切なおじさんから本が届く(2回目)である。私がtwitterで、困窮してるからツイッター本は立ち読みします的にかわしたから(本音はツイッター本あんまり興味無かった)、「本を買うお金も無いかわいそうな子」という認識になったらしく、本買ってやるというので、じゃあ誰かに貸しっぱなしで返ってこない文庫の宮沢賢治詩集がいいです、と答えたら、詩集にプラスしてマイジョウオータロウの本も送られてきた。ぱらぱらと立ち読みした時点で買うことは無いなと思っていたけど、まあ読んでみるかもしれぬ。というかこれお薦めという趣旨なのだろうか。

December 10, 2009

怠惰

全てが「面倒」というところに行き着くことに気づき、そしてその「面倒」は食においてかなり大きく作用することに気づき、しかしそれは結構根本的に侵してはならない領域であることに気づき。

怠惰こそ敵。怠惰こそ自らを蝕むもの。死に至る病、もう一個ありましたよキルケゴール先生、的な。

しかし怠惰だ。
私の一日はほとんど怠惰でできている。たまに勝てる。大概勝てる時というのは他者が絡む時である。しかし人間関係というのは時にもっとも面倒である。働いているある時期に、この種の人間関係は今無理だな、キャパシティオーバーだな、と思ったのが彼氏彼女関係である。厳密に言うと、面倒な彼氏彼女関係である。
実はその時期、好きではないのに嫉妬するという経験をした。恋の厄介な面だけ抱えそうになった。これは割に合わないと早々に解消した。こういうこともあるのか、と思った。出来る限り嫉妬だとか憎しみからは離れたところにいたい。面倒の極みだから。

話が逸れた。

怠惰とのんびり、もしくは怠惰と寛ぎは、違う。怠惰はリラックスではない。
だからといって何事も怠惰を追い出して勤勉へ転換しろというのは無理だから、生きるのに必要な限度で怠惰を追い出すべきである。Maybe。

ある意味省エネなのだと思う。最小エネルギーで動いていたいのだと思う。なぜかはわからない。登校時のコーナーリングと通じるところがあるのかもしれない。


こうやって間が開くと、文章がすらすら出てこなくて困る。

November 28, 2009

俳句に思う

今日、NHKの俳句の番組で、「冬紅葉(ふゆもみじ)」を題に句会をしていた。
それで、冬紅葉という言葉は、あるいは冬紅葉というものは、風情のあるものだなと感心した。
冬になっても散り残った、濃い赤色の葉がぽつりぽつり。豪奢なあの紅葉の鮮やかさではなく、風の吹きぬける青空の下散り残るわびしさ。


句会というものがどういう風に執り行われるのかはよくわからないし、その番組でやっていたようなやり方がスタンダードなのかもよくわからないが。
その番組では、主宰者がいて、その人が事前に「兼題」として上記のようなお題を出して、それを使った句を参加者の各々が詠んでくる。会ではそれを誰の作ということを伏せて、句だけ読みあげ、一人につき2つずついいと思った句を選ぶ。それで多くの人に選ばれた句がやはり高評価を得、例えば4点句、3点句、といった具合に呼ばれる。それぞれが感想を言い合った後に、誰の句だったのか名乗り出る、というもの。
へえ、と、なんだか面白かった。

一番票を集めたのは、

鉄工所跡のあおぞら冬紅葉

というもので、目にくっきりと浮かぶ風景と、少し寂しい感じがいい、みたいな感じで人気があった。
他にも

冬紅葉まだそのままの母の部屋

とか

はさみおり冬もみじ葉や古き本

なんかがよかった。
この回の句はここ

月並みなことを言うけど、本当にセンスのいい俳句というのは、17文字でありありとその風景や気持ちまで喚起させるのだからすごい。作ろうとしてみるといかにできないかがわかる。たった17文字、しかも題があれば残る12文字とかを埋めればよいだけなのに、その何万もの言葉の中のどれを選びどう配置するかというのは。いやはや。

で、芭蕉の句はやはりすごいのだなと。有名な句というのはよく知っているから、改めて感動したりしないけど、実はすごい。旅に病んで夢は枯野をかけ廻る。
和歌もまた。まあしかし究極は俳句だ。

勿論受け手の想像力を多く必要とはするけれど、想像の余地が広いからこそいい。
小さい頃、挿絵のある本が好きではなかった(まあ、今も好きではないな。できれば表紙も絵がない方がいい。)。他の友達が、絵がないからこの本は嫌、というのが不思議だった。大体挿絵とは違った風景や人物や部屋を思い浮かべていたから、それを挿絵に壊されるのががっかりするのだった。そういうのと多分同じだ。
写真はそれを完璧に写し取ってしまうから、その枠の外側や風や温度や匂いに思いを馳せることはできるけど、その枠の中の視覚に関しては動かせないような気がする。

言葉で写し取ろうとすること、でも言葉では取りこぼしてしまうこと、その取りこぼしたであろうものにまで想像を及ぼすこと、というのが、いいなと思う。作者の意図しない解釈がもしかしたら出てくるというのもいい。

多分俳句だから、制限されているから、その言外を読み解こうとするのだと思う。そういう、相手に大胆に任せる芸術というのは、作り手と受け手との間の信頼が感じられるものほどよい。芸術は基本的に自分勝手なものだと少し前まで思っていたが、ここのところ大分印象が変わってきた。

November 26, 2009

問題提起

で、この前問題提起に終始するのってどうなの的なことを書いた。
というか、批判だけするのはどうかと書いた。
でも、基本的に問題提起することというか、気づくことは大事だと思っていて。それをどれだけブレークダウンしていけるか、というところも大事だと言いたかったのだが。これを考えていて、なんで問題提起することがいいことだと思っているのだろうと、思った。

問題を探すことというのは、実はあんまり幸せなことではないかもしれない。まあ何を幸せとするかはあるけど、安らかに穏便に生きることが幸せと仮に措くならば、それとは相容れない。
気づいてしまうこと、疑問に思ってしまうこと、それは順応に抵抗することな気がする。順応というのは生きるために環境に適応するということで、それに疑問を抱くことは精神的に順応に抵抗しているのだと思う。
ランプで生活していた頃に、ランプに問題があると意識した人がどれくらいいたのだろうと思う。ランプ便利だなー、暗くても字が読めるし、いい時代になったよなーくらい思ってたんじゃないかと思う。それが順応するということ。
これに対して、煤の掃除が面倒だとか、いろいろ問題を見つけていた人というのは、このままではよくないのではないかという疑問を持っているから、精神的に充足した気分ではないと思う。でもこれが問題意識を持つということで。
そこから生れ出るものというのは時に、よりよいものである。問題意識を持つことで、その問題をクリアするという目的が生まれ、それを達成することによりその問題をクリアした新たな段階へ進むことができるのである。
これが、私の脳内での、「問題意識を持つこと=いいこと」の構図な気がする。


でも、先の例に見たような商品の話では、これが発明になって先駆者利益で物理的に金銭的に儲かるんだけど、商品ではなくて、ある考え方(制度とか、生きる姿勢とか)に対して問題意識を持ってしまった場合、特に儲かったりしないよなと。逆にその分精神的には順応に抵抗してるわけだから平和じゃないよなと。考え損だなと。
問題を発見すればするほど、安穏とはしていられない。
それがもし自分の内側にこんこんとわき出るような問題意識なら、有無を言わせず自分を突き動かすのだろうけれど、そしてそれは仕方ないのだが、そういう真剣な問題意識であればある程、苦しい。損な気がする。クリアできればいい。けどできないことも沢山ある。


で、そもそも、なぜ考えるのだろうと。気づいて、それに答えを得ようとするのだろうと。

一つには、考えるのが好きだからだなと思う。気づくのが好きで、誰かの気づきを聞くのも好きで、それを自分なりに解答するのが好きなのかもしれない。それぞれの段階での、「ああなるほど」とか「ああそうか」が多分好きなのだろう。つまりは自分にとって新しいものに、感動したいのだろう。

また、一つには、暇なのもある。時間がある。

で、一つには、必要だからというのもある。何かを決めるときに、関所みたいに問題が寝転んでいてその一つずつを道を選択していかねばならず、そのために考えている。
これは、世界と自分の間の折り合いをつける行為だと思っている。
何かの問題が身に迫ったときに、私はこういう姿勢で行く、こういう考え方で行く、ということを理屈をつけて(もしくはろくにつけずに)決めるということ。
たとえば私は人には特に期待しないことにしているけれど、それも、「人は信用できないものではなかろうか。人に期待をするべきか。」という問題があった上で採った方向性で。それはもしかするとある人にとっては考えなくていい問題なのかもしれない。けど、私にとっては考えなければならない問題だったので、それに答えを一応出してそういう風に生きている。
ここでは考えることは処世の手段である。これに答えを暫定でも出していないと、その度悩むことになる。


という、問題提起についての問題提起。を考えてみた。

November 25, 2009

行動化

昨日の会話。

妹 「昨日って、いい兄さんの日だったんだよ」(11月23日)
私 「でも一昨日は、いいにーにーの日だけど」(11月22日。沖縄ではにーにーは「兄ちゃん」という意味)
妹 「はっ、そうなの?じゃあいい爺さんの日にしよう」(11月23日)
私 「easyさん?」(駄洒落)
妹 「なんでもできそうな日!」
私 「君、ヤイコだね」(誕生日が8月15日)
妹 「ヤイコって誰」(ジェネレーションギャップ)
私 「じゃあハイコ」(適当)
妹 「え、シンデレラ?」
私 「・・・おお、冴えてるな(灰子)」
妹 「あの話の教訓って、先手必勝ってこと?」
私 「種をまかなきゃ実はできないってことだな」
妹 「王子待ち。王子って苗字の人いるって聞いたんだけどほんと?」
私 「王子製紙ってあるしな」
妹 「まじで!」
私 「そこらへんのノートとかに書いてない?」

ということで夜中からノート漁りしていたのを母に見咎められ、なんでこんなことに、と思ったらこういう流れだった。

November 23, 2009

ポリシー的な何か

web上でいくつかのサイトやブログを読むが(そんなに多くはないけど)、文章それぞれに味がある。味というか、雰囲気だけど、文章をどういう風に書いているかというので、その人のある一面について知ることができる。まあ、ある一面というのは、そういう文章を書く人、という一面なわけだけれど。

文章を書くときに気をつけていること、というテーマで、近所の人が、スループットのよさ、一意性、短さ、を挙げていた。
最適化だな。プログラムを何行少なくできるかという話も前してたしな。
理系の人は、というのは大雑把すぎるけれど、最短時間で出社するとか、最高得点を出すとか、そういうの好きだよね。まあino見てて思ったんだけど。私もエレベーター乗ったら階ボタンの前に閉ボタン押す派だけど。小学生のころ一番短い距離で行けるようにカーブ曲がりながら登校してたけど。コーナーリング。F1か。


私は何か気をつけているかというと、何も気をつけていない。頭にあることをただただ文字化しているだけである。ごめんなさい。

だからこういうブログになる。接続詞は適切でなく、主語と述語が対応していない。単語が統一されておらず、文章が段階を経ていない。無理やりに結論みたいなものを出す。

あ、でも、この「結論出す」というのは意識してるといえばしている。問題提起ならいくらでもできる。あやふやなレベルで問題提起しても意味ないし、具体的なレベルで問題把握すれば一応の結論は出せる。もしくは解決の筋道は立てられる。
というか、問題提起だけするのってどうなのと思う。子供か。「おなかすいた」とだけ言われても。問題は解決するためにある。批判するだけして、じゃあどうするの、を考えないのってどうかと思う。自戒もこもっている。


で、まあ、とにかく。よく反省する。お客様に出すような代物ではない。おもてなし精神が微塵も感じられない。リッツ・カールトンにしたたかに怒られる。
これじゃわかんないよなという自覚はある。婉曲に、君の文章はたまに難しいよね、と言われたことがあり、まあそういう意味だろう。
しかし私は短くする気はあんまりない。言ってしまえば全部必要なので。多分、削っていったら私の文章ではなくなる。気がする。というか私の文章というのは確立されていたのかい?はじめて知ったよ。
でもわかりやすくしたいなとは思う。思ってる。はい。

知と愛

知と愛とは同一の精神作用である。それで物を知るにはこれを愛せねばならず、物を愛するのはこれを知らねばならぬ。
---------------------西田幾多郎『善の研究』

November 20, 2009

twitter雑感

twitterというのがある。
ついったーである。
右のサイドバーにある怪しげなガジェットはそれ関係である。
何ヶ月か前から使っていて、なんか実名とそうでないのと、2個アカウントを作ってしまい。

余談。
最近思うのだけど、別にこのブログ実名でも構わないよなと思う。実名が出たところでそれ以上の情報って検索しても何も出てこないのだ。寧ろ、このブログの情報量の方が圧倒的に多い。で、ここはグーグル検索にはひっかからないようにしているから、実名を出してもそれでこのブログに来るという人はいないはずで。
しかしgoogleに情報預けすぎだし、まあいいや。

で、ついったーである。
親切なおじさんが、ついったー本を2冊送ってくださった。
1つはコグレ本というやつで、もう1つはtsuda本(@tsudaるの人)である。
コグレ本の半分までざっと読んで、今は置いてある。こう、なんというか、ついったーとは何ぞやという議論とか、これはこういう流れの中でこう位置づけられるとか、そういうことを考えるのはまだ性急な気がして。まあいいのだけど。

ついったーは、錯綜したチャットって感じである。チャットルームという概念がなくて、mixiとかのように人と人とがつながっている。その人の発言はいつも表示されるようになっている。その人の発言が読みたければフォローというものをする。これはマイミク申請のように承諾されなければならないものではなく、自由である。

概要を知るならwikipediaで。


で、ついったーで実際私はあんまりつぶやかないのだけど、というかつぶやく頻度が人によってめちゃくちゃ違うのだけど。あとbotなる機械的につぶやくものもあるのだけど。
実名アカウントでフォローしている人々の中には全然知らない人がたくさんいる。おおまかには、沖縄、院、有名人、に分類されると思う。これらの人々の発言がざーっと表示されるのである。タイムラインという。
このタイムラインは、皆違う。フォローしている人が違うので個々人で違う。みんな全然違う画面を見ている。
それで、コミュニティによってテンションが全然違う。事業仕分けのことをつぶやいてる人がいたと思えばその上に「ドロリッチなう」と来たり、中原中也の詩の一説がbotにつぶやかれたと思えば、ネタが流れてきたりもする。セミナーのお知らせがあったり、オフ参加募ってたり。
何が何やら。

こういうことをつぶやいたら浮くんじゃないかとか、人のタイムラインがわからないからそういうことが全くわからない。あるところでは浮いているし、あるところでは流れに乗って読まれもしないかもしれないし、なじんでいるかもしれない。
というかそういうことを気にしたら発言できない。だから、気が向いたときとか暇なときに超適当につぶやくことにしている。なんというか、実名アカウントは使う気がなかったのだけど、親切なおじさんに発見されてしまい、なし崩し的にフォローされてはし返しという感じで増えている。なんというか、私をフォローするなんていったい何の目的!?と思う。

マーケティングに使う、って人もいれば、人脈構築、って人もいるし、単にmixi感覚で使う人もいれば、情報収集に使う人もいる。多分、使いたいように使うのが正解だろう。そういう意味では、こっちのアカウントの方がのんびりしてて好きだ。
というか、私はある若い時期やっていたチャットから足を洗ったのだ。時間がとられすぎる。同じ匂いがする。

でも情報は速い。院の友人というか手相見の人が、仕分け人になったとか。おもしろい。

これはこれで途上なもの。人が増えると面白そう。

言葉と実体の乖離

また夢の話で恐縮なのだけど、先日夢の中で、「『嘘』という言葉自体は嘘じゃないということ」について考えていた。経緯は知らない。
夢の中で考えるとろくな判断をできないのだけど、このトピックだけ覚えていた。で、起きてからちゃんとした頭で考えたら、あ、ほんとだ、と思った。
「嘘」という言葉自体は嘘ではないなあ、と。「嘘」という言葉自体は本当だなと、つまり、本当に「嘘」だということ。

同じように、「怒る」という言葉は怒ってないし、「悲しみ」という言葉は悲しんでいない。「林檎」という言葉は林檎ではない。あたりまえのことだけど、言葉とそれの指す何かとの乖離というか。


そのことと。


人間には共感という機能がある。連想でもいいかもしれない。
「怒る」という言葉で本当に人が怒っている状態を想起したり、自分が怒っているのと同じような感情を覚えたりすることができたりする。
「林檎」という言葉で、赤く実る林檎の実を想起したり、齧ったときのみずみずしさや欠片の食感や香りを思い出すこともできたりする。


隣の隣のブログ(「朝凪に似た音」)くらいで、「詩のボクシング」という番組の話が出ていた。詩を朗読して、より伝わった方が勝ち進むというものらしく、この優勝者の女の子が話したという文章

言葉というのはとても不思議で、よく物語に思い浮かべた物をかたちにする
魔法がありますが、言葉はすべて、この具現化の呪文だと思います。
色、お菓子、うれしい。
かなしいという言葉を心に浮かべた時、無意識に「かなしい」を
再現している一瞬がある。言葉はそういった気持ちや、いろいろな物の小さな缶詰めみたいなもので
耳や目から受け取ることで、心の中でぱちんとふたを開けるのだと思います。
けれど、疲れている時などにおしゃべりの中で
あ、いま空っぽで出してしまった、とはっとする時があります。
言葉の中に何も入れないまま缶詰めの缶だけ渡してしまった感覚。
それは言葉ではなくてただの音で、「なんとなく」しか入っていない。
わたしはそういう時とても悲しくなってしまって落ち込むのですが、それでも
いつか「風」ということばに風を感じられるような
「やさしい」という言葉に本当にやさしくなれるような
そんなふうに言葉を話せるようになれたらいいなと思っています。



これはつまりは、同じことを言ってるのだなと思った。
私はこの言葉と実体の乖離を、そのままに受け止めていて、彼女はこの言葉と実体の乖離をうめたいと思っているのだという違い。
言葉の可能性を認めつつも自分は探求しない私と、言葉の可能性を信じてそれを探求する彼女。


小説家というものについても、関連して思う。
司馬遼太郎は、昭和について語っていた。番組全部を見たわけではないのだけど(しかもこれは当時に全9回くらいでやっていたらしい)、昭和を語らせれば語るべき本当にいろいろのことを彼は持っていた。自分なりの考えを持っていて、その骨組みを、本質を、自分の言葉で語ることが出来た。その最中に、彼は、「僕は小説家ですから」ということを言った。彼は端的にその本質を語ることが出来るけれども、その表現手段として、小説という形態を自らの方法として選んだのだということだと思う。自らの伝えたいことをより効果的に他者に伝えることが出来る方法として。

私はかねてから、なぜ小説家は小説家になったのだろうと思っていた。それこそよく読んでいる江國香織にしても、村上春樹にしても、遡って芥川や太宰や漱石にしても。
単に独自の世界が書きたいのか、言葉遊びがしたいのか、現実とは違う理想を表したいのか、自分の存在した爪あとを残したいのか、誰かを感動させたいのか。
彼らが小説を方法として使うという選択に、何故かしらと思っていたのである。
自分の考えや感じたことを書きたいのであれば、それを端的に書けばいいのではないかと思っていた。それこそ評論や随筆のように、特にフィクションにしなくても、ストーリー仕立てにしなくても、いいのではないかと。
多分、小説でしかできない伝え方がある。小説にすることによって、その伝えたい命題を具体的事例と結びつけることができる。感情を徐々に移入することで、深く伝えることが出来る。とかいろいろあるんだろうと思う。
なんというか、ある意味奥ゆかしい感じもする。芸術にそれを潜ませるということ。

つまり私は無粋な人間なのだ、残念だ。


要は表現の話なのだと思う。今は言葉にフォーカスして話を進めているが、言葉だけじゃなく、音楽、音、踊り、ジェスチャー、絵、建築、いろいろの表現方法がある。
才能のある人というのは、それらのいずれかを使って効果的に表現をすることができる。
先の言葉の例で言えば、言葉を普段の意思疎通として使う以上の効果をこめて発信するということ。
たとえば江國香織のエッセイ「都の子」なんかを読んでみるとその一語一語がいきいきしている。

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夏になると、だから私はいつも少し勇ましい気持ちになる。今年もまた新しい緑がこんなに溢れているのだから、それに対して心を閉ざすわけにはいかない、と思うのだ。
そういう緑は木ばかりじゃなく、実にそこここに顔を出す。カエルやかまきり、とかげなど、華奢で繊細な小動物の緑や、シャンプーやしゃぼん玉液の透明な緑、気泡の入った、あつぼったいガラスのコップのうす緑。鮎のたで酢のやわらかな緑や、お新香の胡瓜の緑(実際、お新香は夏の愉しみの一つだ。目にしみるほど鮮やかな、胡瓜のきみどり、茄子の紺。ぬかの風味が絶妙のきゃべつ)。それから、野球場の芝生の緑。

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効果的な漢字とカタカナとひらがなの使い分け。バランス。緑であったりみどりであったり。しゃぼん玉。きゃべつ。
私などは先に漢字で書いた単語を後でひらがなで書いたりしてはいけないのではないか、なんてつまらないことを思ったりするのだけど。
この人の文章を好きなのは、その単語を文を丁寧に扱うというのが大きい。丁寧すぎるくらいだ。まあ一方で雑にというか、端的に言葉を扱う文章もその確度さえ気に入れば好きなのだけど。勢いとか、誠実さとか、文章には実にいろいろなものが込められている。


それにしても、言葉にそのものをこめて送り出すということの難しさよ。
彼女の言葉を借りれば、私は空っぽの缶詰ばかりを放っているような気もする。適当なことばっかり言っている。丁寧に生きるという言葉をよく聞くが、多分こういうことなのだと思う。

ただでさえ言葉を使うのに難儀しているというのに。

November 12, 2009

夢見

最近夢を見る。

夢見ない派だったのに、見る派になってしまった。
どんな夢かというと、殆どが、「たどり着けない夢」である。

ある日は、いきなりどこかの駅前にいる。東京らしい。新橋駅前と六本木のアマンドらへんの交差点が混ざったような風景で、私は一生懸命ここがどこの駅なのかを考えている。品川?ちがう、目黒?いや、という風に。頭の中の地図と照合させようとするがうまくいかない。
私は院の同窓会に行きたいようなのだが、どうしてもその会場にたどり着けない。しかし院の友人たちは行く道すがら会う。会うんだけど、私は一緒に行こうとか言わない。とにかく会場にたどり着きたいらしい。そのうち、もう終わってしまったのではないか、という考えに至り、とにかく駅に入って、大学の方に電車で移動しようとする。
そこでもJRに乗りたいのに、JRには行けなくて地下鉄になってしまい、仕方ないので地下鉄で東西線か何かに乗ろうとするのだけど、上に上がろうとするエスカレーターが実は山みたいに頂上があって途中で下りになっており、やっぱりたどり着けない(エスカレーターはよく出てくる)。

ある時はショッピングモールのある階に行きたいのに、階段が一階飛ばしだったりドアを開けたら倉庫だったりしてどうしても行けないとか。
ある時は空港内を迷いまくって、飛行機に乗り遅れて沖縄に戻れないとか。
家に帰ろうとしているのに道がなくて、建物の中を通り抜けたら見たこともない場所に出てるとか。
自分の部屋に帰ろうと思ったら違う部屋だったりとか。

で、起きたら疲弊している。


そっか、検索してみればいいのか、と思ってさっきしてみた。結構おんなじような夢を見てる人多くて。あと、こんなサイトがあるのだね。

夢辞典・夢診断Wikidream

迷う夢は、なんか目標を失っているとか自信がないとか書かれている。進路と、社会とのかかわり系か。
スピリチュアル!胡散臭いぜ。
タロットを彷彿とさせるけど、タロットはやんなきゃいいけど夢は見ちゃうからな、と思う。やっぱり見ない派に戻りたい。

でもカテゴリ検索見てて、あーこんな夢見てなくてよかったなーって思った。こわいわ。
私の場合、たまに西武の涌井が出てきたりラーメンズが出てきたりもするから、概ねいい夢見てると思う。

「未熟」

未熟者について考えた。

私自身よく「未熟者で」とか、使う。「怠惰で」、とかと同じくらいよく使う気がする。
謙遜でなく本当に思っているのだが、あるとき、「未熟、・・・未熟?」みたいになってきて。こう、繰り返してるとよくわからなくなってくるといういつものゲシュタルト崩壊的な。「あ」ってずっと書いてると、こんな字だっけ?ってなるみたいな。いや今回のは単に前後の漢字を単体で見たというだけの話。

「未だ、熟せず」。
これから熟するとは思うんですけど、ちょっとまだなんですよね。
年も若いですし、いろいろ他のことやってきちゃったものだから。
だからね、のびしろはあるんですよ。多分。
で、まあいつ熟するかというのはわかりかねるというか、予定は未定というか。そこまではわからないんですよ。なにぶん、未熟なもので。
的な?

言い訳っぽいなと思ってしまい。のびしろがあること前提なところが若者らしいというか。多分これあんまり年配の人は使えないワードな気がする。
まあ、熟すようがんばります、精進します、という前向きなところは評価してもいいのかもしれない。
でももっと謙虚にいうなら、「未熟で」ではなく、「狭量で」とかになるのかもしれない。のびしろすらありません、私は本当につまらない者です、という。


逆に「未熟者めが!」という叱咤は愛があるんだなと思った。
「ええい器が小さい!」とか、「この凡人め!」とかいうのはもっと辛いのかもしれない。
何にせよ叱咤は愛情であることに違いない、たぶん。

November 9, 2009

昭和

昭和のことでも。

私は昭和に属している、となんだか思っているところがある。
昭和58年の生まれだから、昭和っていっても最後の方ちょこっと生きてただけで、あと平成育ちなわけだが、なんか昭和に属しているという意識めいたものがある。それは生年月日を書く度に意識に刷り込まれるからかもしれない。というかそうだろう。だから、平成生まれの人に、うわ、平成生まれ?まじで?とかいう反応をしがちなのである。こちとら平成育ちなのに。昭和だったの5年くらいなのに。

メディアの影響もあるだろう。昭和といえば、こういう生活様式で、こういうのが流行ってて、とか、平成といえばめっちゃ最近で、BRICs!グローバリゼーション!iPhone!みたいな。ちょっと言い過ぎたけど。でも、たまにTVで流れる「平成」の文字を持つ小渕さんの映像はなんか古くて、ああそうか、平成って21年前からだよねそういえば、ということに思い至る。すぐ忘れるけど。


多分、私は昭和と90年代をごっちゃにしている。90年代=昭和みたいになっている。トレンディドラマやお立ち台みたいなバブリーなものとかサザエさん的生活様式は昭和だと思っている。考えを改めねばならぬ。


音楽に関しては、私は幼少の頃多彩な音楽に触れる機会を与えられておらず、母の聴くクラシック及び当時の歌謡曲か、父の聴くフォーク、グループサウンズ的な何かのみに限定されていた。
クラシックはクラシカルなわけで置いておいて、つまり「伊勢正三」とか「風」とか「南こうせつ」とか「かぐや姫」とか(かぶってるけど)、「サイモン&ガーファンクル」とか、「カーペンターズ」とかを主に聴いていたのである。というか、両親は派手なものをあまり好まず(今思えば。)、ピンクレディーでもキャンディーズでもタイガースでもなく、こういうのを聴いていた。
私は「風」の楽曲がお気に入りで、妹と二人歌詞まで覚えていた。空耳で遊んだりしてもいた。音楽の時間に「あの人の手紙」(悲しい)を口ずさみ担任に「なんで知ってんの」とものすごく食いつかれたことがある。


大抵それを聴くのは父親の車の中だったので、夜の闇と高速道路のオレンジの灯りと淡々と続く道路、車内の機器の緑に光る文字のイメージが、これらの曲とは結びついている。

そして特に父が、結局今もこれらの、というか、あの時代の曲のバリエーションしか聴かないことに驚愕する。飽きないのだろうか。他に琴線に触れる新しい音楽とか無いのだろうか。
今日もまた彼は車内で、「初恋」を聴き、明日もまた聴くのかもしれない。
昭和というのはそういうものなのかもしれない。生粋の昭和っ子か。


この前、NHKアーカイブスで、司馬遼太郎が昭和を語る、というのをやっていたのだけど(80年代の映像だった)、彼のように昭和を最初から最後まで生き切った人が昭和を語るのは本当に聴きごたえがある、と思う。あの映像はよかった。小説家としての自分を語る場面もあった。いつかまた見たい。残念ながらNHKオンデマンド等では配信されていない。
昭和には戦争がある。この大転換の経験なくして昭和は語れまい。
この太平の世に生を受け恵まれた生活を享受しながら、こんなことを言うのは本当に気が引けるのだけど、羨望している。あの価値観の大転換という矛盾を受け入れざるを得なかった人々の強さというか、問題意識には、心から敬服する。
勿論彼らの持ちえない感覚や視点もあるわけだけど、それは措いて。

そんなわけで、私が抱いている昭和への帰属感というものはひとつ大事にした上で、昭和について知らなさすぎることに薄々気づいてはいたがやはり勉強しなければと思う。歴史に学ぶことが未来に役立つからというわけではない。事例に学ぶことが単に好きなのであろう。必要だから勉強するというような殊勝なことは仕事でしかしない。


さて、明日も平成に生きるか。

November 7, 2009

変換

「さいこうほう」と聞いて、頭の中で変換されたのが違ったって話。

サカナクション系

まあどちらにしろ、サカナクションという人々の音楽は、意外に好きかもしれなくて、それってなんかちょっと、と戸惑いを隠せない。
こういうの好きだっけ、というか、志向としてちょっと逆行した感じで。今更感と、いかにも感が。
いかにも感て何だよて感じだが、なんでも「感」つければなんとなくニュアンスで伝わるみたいな環境にいたなー。前のめってる感、とか。一生懸命やってる感、とか。ひどいときは具体例の羅列(「~とか~みたいな」)だけで。抽象化すら投げてて。楽々コミュニケーション。「風」とか「系」とかも同様か。例。がんばってる風。妖精系。


で、どこが好きかというと、こう、昭和な感じというか、フジファブリックの匂いというか、ナンバーガールの匂いというか、そういうのも好きだし、さらにダンサブルで音の使い方に好きなところがあったりとか、あとPVのなぜかvocalしか顔写さない具合とか、あと、声も最初聞いた時アジカンのゴッチ?ていう感じで(だんだん違うけど)いい声である。声はいい。Going under groundの人も声はいい。声はいいんだよ。
それにしてもフジファブリックがなつい。なんだろうこのぐっと掴まえられる感じ。
旋律的にはキンモクセイとか完璧に昭和で結構好き。ついでにレミオロメンも昭和感ある。
でもどれも入れ込みはしない。空気のような。

あれ、前に昭和系の話書いた気がするぞ。デジャ・ヴ。

ネイティブダンサー/サカナクション

靴だけ踊るとこが好き。

追記:
昭和のこと書いた気がするのは、ほんとに気がしただけだった。夢だったっぽいよなーと思ったら、多分夢だった。書いてなかった。
なので、今度昭和について書こう。私なりに昭和。

November 6, 2009

ハム関連で

有限会社があったころなら、

ダルビッシュ(有)

がありえたのに、有限会社は株式会社に会社法によって組み込まれたので、

ダルビッシュ(株)

になってしまった。
的な話がtwitterで出てて面白かった。あれ、でも施行前の設立なら特例有限会社で商号そのままOKなのかしら。

何にせよ、沖縄の雇用対策は急務だ。と思う。正社員で13万は、ないわ。これは人材出てくよ。いろいろだめだよ。昔からだめだだめだと大人たちが言ってるの聞いて、どげんかせんと云々的なことは思ってたけど、今は肌感覚でそう思う。
なんか、人間ってものがおかしくなってきている気がする。いや元々おかしいんだけど、人間性?日本人の重んじているところの。それがどんどん希薄になっていて。想像力とかね。つまりこうしたらこうなるってのを想像できない、一手先を読めない、とか、こうしたらこの人はこう思う、迷惑がかかる、悲しい思いをさせる、とかそういうことを想像しないというか。こういうのって、元々備わってるものではなくてどうしても後天的に身につけるものだと思っていて、そういう機会が少なくなっているのだろうかと思ったりもする。
つれづれなるままに。
とりとめもなく。

最近、学校ってものを考える。学校っていう組織というかシステムというか。壁と卵の話に通底するところありと考える次第。

最近の問題意識的なぼやきでありました。

November 5, 2009

家族と暮らすこと。共有。

家族で住むってことは、我が家の場合だけれども、何でもシェアする、ということなのだなと、体感をもって思った。
昔、NHKで「グーとスー」っていうアニメの1コーナーがあって、グーとスーは兄妹で、その歌の中に、「楽しいことはふたりぶん、悲しいことははんぶん」ってフレーズがあったけれど。

楽しいことは倍々で増える。増幅される。
喜んだり感動したりっていうことは、シェアすることによって(なんか「シェア」って言うと一定数のものをなんとなく割り算してる気がするので、「共有」にする)、ふくらむ。伝播して発展してそれが返ってきてという具合。それはどんなコミュニケーションでもそうで。

苦しいことや悲しいことは分け合える。
聞いてもらうだけですっきりするとか、今はあんまりないけど、小さい頃嘘をついた苦しさや、学校でのいやなことを母親に打ち明けたりすることは、それ自体が何かの解決にならなくても、心の軽くなることだったな、なんて思いだす。
今ではあんまり言わない。というのは、言っても仕方がないって思うからで、言うことによるすっきり感よりも他者に分けてしまった感情だとかを考えて自己嫌悪したり負荷をかけてしまうこととを天秤にかけて、言わなくなっているのだろうと思う。言うことでそんなにすっきりもしなくなったというのもある。
まあそれだけのものを抱え込むだけのキャパシティを年々得たということなのだろう。そういう意味でのスペックは上がっている気がする。まあ少し前にこのキャパを見誤ってしまったわけで、やっぱり未熟者なわけだけど。

それでもある点を超えるとやはり、涙とか感情というのは言葉と共に溢れ出すもので。そういったものを家族と一緒にいると、どうしても共有する。
うちは三姉妹なので、構成として男女比が1:4で。
少し前に、こういう話を見かけた。
女性と男性のコミュニケーションの違い。
女性は「同調」、男性は「要点」なのだと。
女性は、こうこうこうでね、と話す時に、相手に同調を求めている。愚痴だったら、「それはひどいね」とか「つらかったね」とか、そう言った言葉をまず期待する、と。
で、男性の場合には、こうこうこうでね、と話す時に、相手には要点を求めている、らしい。「それはこういうところが問題なんだね」とか「こうしたらよくなるんじゃないか」とか、整理してあげるというか、彼の話の要点をつかんでくれたのか、ということを重視するようだ、と。
なかなか当たっているのではないかと。思う。
まあ、どちらも求めている、というのはあるけれど、比較的こういう傾向はある気がする。
女性は急に解決法を語られても、「同意してくれないの?私の気持ちわかってくれなかったの?」と思い、男性は同調されたところで「いや同調してくれるのはありがたいけどほんとにわかってる?なんかアドバイスくれよ」と、思う、ような気がする。結論重視というか。いやわかんないけどさ。
でも実際、女性と話す時はまず同調っていうのは一つ、あると思う。と、両親を見ていて思う。まあ家族をみていて思う。

で、ネガティブなものを共有する時というのもそれは結構大事だと思うわけで。
私はどちらかというと、「誰かの不幸せに 僕の涙はいらないから」的な考え方をする方だから、頭の中自体は、この同調するというのをすっとばして、その問題を解決するにはどうすればいいかを考えているのだけど。
そして同調しすぎて自分まで感情自体を共有してしまうのはできれば避けたいと思っていて。いいことがないからだ。一緒に悲しみにくれたところで、何も解決しないし状況も変わらない。悲しい気持ちの人が一人増えただけだ。自分のパワーも落ちる。
こう考えるのは、多分、自分が人の感情に同調しきれないからだ。正当化のために頭に置いている考え方だ。ある程度意識的に。そしてそれにコンプレックスを抱きながらも、ある場所では強みになるだろうと思っていた。結構ポジティブだな自分。

それが、ここ最近おかしい。
一緒に苦しくなったり、悲しくなったりすることがある。勿論話を聞いた段階で、ある程度の感情のゆらぎみたいなものはある。けど、それはあくまでそういう感情を念頭に置いた上で考えようという一つのデータ的な位置づけだった。それが持続したり、まして自分まで落ち込むなんてことはありえなかった。

という体験をしているな、という記録。
何にせよ、生きてるうちにいろんな感情を体験するのはお得だと思っているので、よし。そういういろんな体験って、ゲーム感覚で言うと、マテリアとか集めてる感じで。いろんなケースにあたることで、バリエーションも増えるし。それは人との出会いも、やりとりもそうだし、場所も、ものも、それらで得られる感覚や感情や、概念や。いろいろ。
だからそれらを忘れたくなくて、こうやって不完全ながらも文章に残したり、写真に収めたり、健気な努力をして、自分の人生でのいろいろをコレクションしてるのかもなと思う。

野球か

妹 「一眼あそばせ、ってなんかこわくない?眼だよ眼。」
私 「一眼レフってなんだろね。」
妹 「一眼レフト。」
私 「1番レフト?」
妹 「よくわかったねー」

日本シリーズですなあ。
坂本はショートだけどね。

November 2, 2009

犬と猫をどうして見分けられるのか

ダーリンコラムより。<ねこちゃんは、犬じゃない。>

以下引用。

-------------------------------
なぜだ。
なぜに、犬と猫とはまちがわないのだ?
そっくりではないか、犬と猫。
しつこいようだが、
犬と猫を、なぜ、まちがわないのだ?

犬と猫の定義を、人は詳しく知っているわけではない。
どこがちがうか、質問されてうまく答えられるか。
答えられやしないだろう。
しかし、次々に目の前に、犬やら猫やらを出されたら、
「これは犬」「これは猫」と、
断言できるに決まってる。
たぶん、ことばをおぼえたばかりの幼児でも、
「わんわん」と「にゃんにゃん」の区別は、
たぶん確実につくはずだと思う。

なんで?

犬なんて、チワワから、ペキニーズから、
ダックスフントから、ブルドッグから、グレートデンまで、
みんな大きさも姿かたちもばらばらで、
ちがう生きものだと思えば、思えないこともないだろ?
なのに、どうして、
だれでも「チワワ」と「グレートデン」を、
おなじ「犬」だって言えるんだ?

ずいぶん自然に、犬ってものがどういうものか、
ジャッジできちゃうのは、どうしてなんだ?
すごくね?

あんがい、人間って、
このくらいの「すっごいジャッジ」を、
無意識でじゃかすかやってるんじゃないか。
そう思ったんだよ。

あらゆる犬が「犬という集合」であることを、
人間は、どうしてわかるの?
そのつど、そのつど、
どうして、あのいろいろの犬を見て、
「犬だ」って決められるの?
-------------------------------

そうそうそう、わかるそれ、その疑問。って思いませんでしたか、各位。

定義の問題とか言うけれど、定義の問題にするってことは、普段定義ってものをあんまりしてないからともいえるわけで。というか、暗黙のうちに言葉以外のもので定義されているというか、自分の中にいつのまにかジャッジの基準があるというか。

こういうのもこびとさんの範疇にはいるのだろうか。

確かに猫と犬は間違えない。なんでだろう。

前、猫だと思って育ててたら豹だったって話があったけど。
そういうのはまあ、あるんだよな。猫と豹だと子猫時代は間違える、と。

河馬と犀はどうかしら。間違えないか。

カピバラとビーバーは?見たことないしな。

ミーアキャットとブッシュベイビーは?ふむ。

ということは、猫と犬はよく見かけるから、小さい頃から、これは猫だよ、これは犬だよ、と教えられるのと共に、犬と猫のそれぞれの性質をインプットしているというわけなのかもしれない。だから、わかる。
ポメラニアンを見て、犬だよといわれ、チワワを見ても犬だよと言われて、その共通点をどこかしら把握するのだろう。それはそれですごい。
しかし最初に、犬という集合を犬とした人はすごいのかもしれない。いや、もしかしたら猫も最初は犬だったかもしれないけど、だんだん、なんかこれちょっとちがくね、みたいになって、じゃあこういうのは猫って呼ぼう、みたいに分化したのかもしれない。
そんな仮説。

November 1, 2009

いにしへの日

いにしへの日は


いにしへの日はなつかしや

すがの根のながき春日を

野にいでてげんげつませし

ははそはの母もその子も

そこばくの夢をゆめみし

ひとの世の暮るるにはやく

もろともにけふの日はかく

つつましく膝をならべて

あともなき夢のうつつを

うつうつとかたるにあかぬ

春の日をひと日旅ゆき


ゆくりなき汽車のまどべゆ

そこここにもゆるげんげ田

くれなゐのいろをあはれと

眼にむかへことにはいへど

もろともにいざおりたちて

その花をつままくときは

とことはにすぎさりにけり


ははそはのははもそのこも

はるののにあそぶあそびを

ふたたびはせず


---------------------------三好達治「いにしへの日は」より

October 27, 2009

手紙/沈まぬ太陽

これはちょっと今書かなければならないので、書いておく。

数日前から、苦しい。重苦しい。

妹二人の抱える問題のことが大きいが、重なって東野圭吾の「手紙」を読んでしまったことと、映画「沈まぬ太陽」を見てしまったことによる大きな衝撃及び突きつけられた生き方への疑問的なものによって、大きなダメージを被ったからである。

妹たちの件に関しては、その周囲の悪意ある人間たちに腹が立っていて。これは私が腹を立てても仕方のないことなので、解決法を一緒に模索することや感情を共有してあげることを主にしている。しかし彼女らは我慢する。私だったら何か投げつけていると思う。

で、「手紙」。
これはメディアマーカーとmixiでレビュー書いたが、いい意味で重い。苦しいけど、よかった。表現に凝る作家というのは、表現がその本質であったりするので、先を急いでしまうことがない。しかし表現でなくストーリーで読ませる作家というか、ドラマ性のある作品は、話の筋が気になってつい情景の描写を読み飛ばしてインパクトある単語や台詞を拾っていってしまい、フォトリーディングっぽくなってしまうことがある。この作品はその手のものだった。

少しずつ読んでいくごとに心が重苦しくなる。テーマを外れることなくずっと目の前に描き出している。最後の直樹の兄への呼びかけは、心の芯に問いを投げかける。私は、このまま終わらせてはいけないと直感する。

罪と罰である。
家族である。
社会である。
私はこれらを一旦総括して、どういう生き方をするか決めねばならないと思っている。これは今まで実は眼前にありながら咀嚼できず、見ないふりをしていたものであって、しかし恐らくは自分のコアに関わる、自分を突き動かすものに関わる話だと感じる。もしかしたら自分の中にはもう答えがあるかもしれない。それを見つけ出して意識しようと思う。
中学生や高校生の頃はできなかった。大学でも院でもできなかった。けど今なら結論を出すことができるはずだ、となんとなく思う。


「沈まぬ太陽」もまた、私にとっては衝撃だった。
私はこういういわゆる「熱い」映画については、まずは製作者たちの思いを受けとめることにしている。伝えたいことがある、と感じるものについては。
渾身の一撃を食らった感じである。

そしていろいろなものとタイミングよくリンクしたというのもある。
作品中には、日航機墜落事故が出てくる。クライマーズ・ハイ。「沈まぬ太陽」の作者もまた新聞記者であったことは興味深い。そしてその山崎豊子は「白い巨塔」の作者であり、構図としては二人の男のそれぞれに違う道を歩む様が、里見と財前と重なる。
労組側に偏った作品との見方もあろうが、事実懲罰人事や事故は起こっているし、まあそれは日航が悪いとか労組が悪いとかはあんまり関係ないことの方が私が考えたいことなので措く。

そしてこれもまた、犠牲となるのは家族である。「手紙」。家族を守るために、全てを捨てるべきなのか(妹曰くアメリカではそれが最も理想的な男のあり方なのだとか)、そうではなく家族を犠牲にしてでも信念を貫いたり、同志を裏切らないのがあるべき姿なのか(日本はどちらかというとこっちが理想とされがちに思う)。

これに加えて、会社とは何なのか、少し前に書いた、働くとはどういうことなのかということ。
やはり、父親と重なる。

俳優陣もいい。香川照之の役が凄絶である。
3時間半の長丁場だが、お薦めしたい。途中10分休憩がある。

October 26, 2009

更新頻度/或る日の会話/メモ

なんかあのブログって、「更新頻度下げます」って書いたら、更新頻度上がるような気がすんねんけど、みたいなことを、某氏に言われたのですが、遺憾なことに全くその通りで、更新頻度を下げますと書くのは、更新頻度下げるぞ、という決意を表明することによって外からの監視というか、書けない状況に自分を追いやろうとする作戦なのですが、全く効き目がなく、益々欲望のままに書き連ねるという人間的な弱さを露呈してまいりました。なんだ書いてるじゃん、っていう突っ込みは、私にとって、何でもなかった。何のリスクもなかった。そこに早く気がつくべきだった。

しかし、今度こそ、今度こそは、更新頻度下げます。いつもと何が違うのか、それは聞くなかれ、お客人。
更新頻度というか、更新日数を下げます。一日複数postもあり得るけれど、更新に使う時間を短縮する。


そういえば昨日は、ハモりが多い日だった。
異口同音になること、同じタイミングで同じ言葉を言うことだけど。
テレビで「明日の記憶」がやっていて。
これ見たし、もう消そうか、といって消し、DVD playerでCD聴こうということになり。

妹1   「入力何だっけ」
私と妹2 「「2」」
私    「いろいろあるよなあ」
妹2   「何が?」

(間)

私と妹1 「「人生。」」
妹2   「うわー」


あとは家族を家電にたとえると何か、とか。
「お父さん何だろね」
「洗濯機!」
「それ洗濯してるからだろ!(洗濯の大抵は父が仕切っている)」
「じゃあテレビ!」
「見てるからだろ!(父が視聴時間最長で、母に怒られる)」
的な。あと楽器に例えると何かとか。
「学校で生徒に、トライアングルって言われたんだけど」
「微妙だね」
「微妙だね」
「ピアノとか木琴じゃない?」
「でも結構フルートって言われるよ」
「「あー」」
結構フルートに似てるって言われるってすごいな、と思いつつ。

あとユニフォームが揃った!とか。(説明しよう。うちには家着として同じ無地のTシャツが何枚もある。白とグレーがあって、白は数が少ないし、あんま着ないのでアウェー用、グレーをホーム用ユニフォームということにしている。大体、家着なんだからホームしかありえないのに。で、これは誰でも着ていいことになっている。私は大抵そのTシャツを着ているのだが、これが家族全員揃うということがなかなかなく、いつも一人みださー(乱す人)がいた。しかし遂に昨日、全員同じTシャツを着ている状態になった。)
写真撮ろうとか言ってたが、妹の不手際のためSDカード不在で断念した。

しかし院で昔同じようなことをしていたのを思い出した。クラスの友人たちと黒ポロデーと銘打って、黒いポロシャツ着てこようよ、って8人くらいで一緒に学校に着て行って写真撮った。歴史は繰り返す。

ユニフォーム記念日は10月26日に決定した。
いい語呂あわせを考える、みたいになって、もうとめどない。
そういう日々。楽しい。
でも各々問題を抱えているのだ、実は。家族の話はまたいつか書こう。


考えていることメモ。
・火の鳥。永遠ということ。
・手紙。差別ということ。
・家族。困難ということ。

October 24, 2009

Whisky loves Music.

そしてまた今日もタワレコに行ったわけですが。
何なんだろう、多分田舎者だからなんだけど、タワレコ行くのって嬉しい。
更に言えば、あの黄色地に赤でTOWERとか書かれてるのとか、わくわくする。いやわくわくというか憧れ?格好良さの象徴?ポップなくせに格好良くて、メリハリ効いてて、TOWERなんててっぺんを意識させるような文字列で、いい大人が揃いも揃って”NO MUSIC,NO LIFE.”とか言ってて、こいつらすげー格好いいよ、って思ってて。別に音楽に共感できなくても。

で、今日も今日とてタワレコのポスター(アーティスト撮ってるやつ)がかっこよくて。前より写真がいい。やたらかっこよく撮れてる。で、いいなあってまた思った。かっこいい以外の形容詞が見つからん。

ポスターはこんな感じ
この中だと、indigo jam unitとかエレカシとかいいですね。エレカシの人はですね、早稲田に住んでたから、帰り道見たことがあります。ちっこい神社の立て看板を凝視していました。
永ちゃんもいいね。

で、今度タワレコ行ったら是非bounce11月号を手に取って、真ん中らへんを見てください。
TOWER RECORDS×SUNTORYの広告が、なんかよかった。
一種類のウイスキーに一組のアーティストで、”NO MUSIC,NO LIFE. NO MUSIC,NO WHISKY.”って書いてあって。インタビュー付きで。
エゴラッピン、坂本龍一、山崎まさよし(勿論ウイスキーは山崎)、斎藤和義、Port of Notes、大川毅とワタル・バスター。
確かに、NO MUSIC,NO WHISKY.
合ってるかも、と。
NO MUSICでウイスキーってなんか違うなと。

あ、ついでだけど、サントリーのサイトのWHISKY on MUSICのページの写真がかっこよかった。
これ。



で、無知なままウイスキーとか飲んでるのですが、グレンフィディックとかマッカランとかボウモアとかラフロイグとか、これ全部サントリーが販売してるんだ、と知った。すいませんでした。
なんというか、サントリーっていいよね。広告とか扱ってる商品とか好きですね。ハーゲンダッツとかね。
あと東京支社?サントリーフーズ本社?の立地ね(台場)。閉鎖会社なところとかもね。でもキリンと統合するっていうんでそれは無くなるんだろうけどね。

接吻

世界の名画、みたいな本が家にあって、それに載っていたのを見たのが最初だろう。クリムト。

中学の頃は変わった絵だなとしか思っていなくて、それよりもっと変わっている、ダリとかの方がインパクトで。中学生の美術の時間に隣だった子がダリ大好きだったけど。

美術の時間しか絵に触れなかったし、周囲には絵描きもいないし、絵好きも(多分)いないから、絵のことは全然知らない。無知蒙昧。~派といわれたところでわからない。そんなことは文学であろうと書であろうと彫刻であろうと、あらゆる芸術においてそうなのだが、芸術というものは、考えるな、感じろ、の世界であると勝手に認識し、いかなる表現も受け手の取り方に委ねられているとさえ、思っている。
でも、背景を知ればもっと面白くなるだろうな、というのは思う。

で、クリムト。
私はその後、つまりその本で見て以来、特にクリムトとは縁のない生活を送っていたが、ある日、何かの拍子でクリムトを検索する機会があった。恐らくはネットサーフィンの過程でであろう。

クリムトの代表作「接吻」は、圧倒的な幸福感を伴って私の前に現れた。
中学生の頃には感じきれなかった、幸福が眼前に迫っていた。小さなディスプレイの中にもかかわらず。
恋をする、という経験が、その幸福感をしっかり感じ取るようにさせたのは明らかだった。多分何人もの人が、この絵の中の女性と自分を重ねたと思う。黄金と花のような模様とで彩られた、同じ布にくるまって。
私には当時恋人がいたのだろうと思う(はっきり覚えてないけど想い人はいたはず)。

そして、今この絵を見て感じるのは、一瞬の輝きのようなもので。
当時ほど感情移入できないのがかなしいけど、やはり美しい絵であると思う。
変に大人になってしまったというか、一歩引いてしまったというか。

歌の歌詞なんかが、経験を積む間にわかるようになる、というのはあるけれど、絵でもそういうことがあるなあと、まあ当り前ながら思った次第。そうしてそのわかった!感が、遠くになってしまうこともまた、あるのだなという。

何故かこういうエントリが続いてしまった。
ちなみにクリムトのことを書いたのは、目の前にクリムトの絵のカードがあるからである。他意ない。

そういえばクライマックスシリーズ巨人勝ったね!とか書けばよかったのかなー。

※参考
クリムト:接吻

October 21, 2009

男女間の友人関係の成否について

これ伊坂幸太郎の「陽気なギャングが地球を回す」にあったなあ、なんて懐かしく。
虚構新聞:「2と1は等しい」 数学界で論議

結局この問題、あの本の響野の解説でふうん、って終わってしまったんだけど、納得はしてないよなあと。

ああ、そういえば、全然話違うけど、男女間の友情は成立するかっていう話が出て。これもまた、古い議論ですが。
これは自分の中では結構前から答えが出ていて。というか処世術を身に付けたというか。
これ、また定義問題に行くなぁ。多分「全ての問題は定義問題に帰着する」っていうのはこういうことだろうと思う。

私は成立すると思う。というか成立している。現に。でないと男の子と友達になれないではないか。そうでなければ常に恋人もしくは恋人予備軍ということになろう。そんなことあるわけない。世の中に何人異性がいると思っているのだ。出会う男性片っ端から全員恋人か恋人予備軍なんてことはありえない。とか思うわけで。

屁理屈をこねれば、同性愛者の男女間は恋愛関係に陥ることはないはずだ、とか。
(これもまた男とは何か、女とは何か、という定義問題に帰着させることはできる。趣旨違うのでしない。)

で、定義問題になるというのは、その「恋愛感情」というものをどの程度のものからそう呼ぶかということ、がまずある。恋愛感情とは何か。

あと、友情と恋愛感情は互いに排除し合うのかというのもある(私はこれは互いの範囲がかぶると思う。というか限りなく、恋愛感情は友情に包摂されると思う。感覚では。)。
だから、排除し合わないということなら、恋愛に陥ったって友情は成立している。両立する。
まあ多分、この問題提起者は「友情かつ恋愛の場合は恋愛とみなす」、という主張なのだろうけど。


あと、友情というものの定義だ。
人間の関係性というものは、関係というくらいだから複数の人間が関わる。二人だとしたら、そこには2つの主観があり、友情を感じているかいないか、それがどういったものかという主観は2種類あることになる。
それらが両方「友情」だと合致したときのみ、友情は成立するのか。
つまり片方が「恋愛」で片方が「友情」の場合は友情は成立しないのか。ということ。

結論から言うと、私は片方で「友情」と思ってればそれは友情成立ということになる。結局「恋愛」というのは互いの主観が合致しないことには恋人になりえないわけで、なりえない以上、関係は友人なわけで(まあ他人になることもあろうけど)。そういう意味で、その関係性を「友人」にしておくことが可能だと思う。


でもまあ、多分、この問題は、両方が恋愛感情を持たないということがありうるのか、という意味だよね。わかってるよ。
これはまた恋愛感情の定義の問題にしとこう。
でも、友情、あると思うけどな。結局気持ちなんてものは自分にしかわからないわけだから、証明できない。


今思いついたけど、関係性と感情は分けて考えればよいのか。前者は2つ以上の主観が関わっていて、後者は1つだ。
だから、「恋愛関係」「友人」とかは、両者の合致が必要で、
「恋愛感情」「友情」なんかは一方的でも成立する。

上述までの部分を書きなおすのは面倒なので以下結論。


男女間の「友人関係」は成立し、継続することができる。
男女間で「友情」が各々に発生しそれが継続することもある。
男女間で「恋愛感情」が各々に発生することもある(継続するかどうかについては懐疑)。
男女間で「恋愛感情」が発生しないことがあるかについては、各々の主観の問題なのでわからんけど、私見は発生しないこともありうると思う。


というわけで、友情素晴らしい。友愛友愛。
ちなみに、更に上位概念として、愛情があると思う。愛情の中に友情があり、友情の中に恋愛感情がある(ちょっと外れる時もある)のではないかしら。絵が描ければな。


※追記
この問題を考えることの実益って何かしら。
異性と友達になれるかどうかわかるということか?
恋人に異性の友達がいるときに恋愛に発展する心配をするかしないか決めるのか?
よくわからないけど、これ成立しようがしまいが、どっちでもいいなーと、思った。のにこんなに書いてしまったことへの自分の悪い癖を自戒。

October 19, 2009

郵便につながってあれこれ

先日お手紙を頂戴して、嬉しく読んでいた。

一部では、というかちょっと前に堀江氏が郵便不要論をつぶやいていたのだけど(ブログエントリはまだ読んでない)、郵便が不要な人は不要だろうけど、必要な人は必要だ、と当たり前のことを思う。

なんというか、これ不要じゃん、とか、代替可能じゃん、とかって、それはそうなんだけど、制度を語る際には、全体にそれが適用されるんだってことを考えるべきだよなーと、自戒を込めて思った。大人も、子どもも、おねーさんも、だ。おじいさんもおばあさんもね。何かが変わる、というときに置いて行かれがちなのは、多分弱い人たちなんじゃないかと何となく思う。
同じことで、テレビ不要論もあるわけだけど、で、私も今の民放好きじゃないからよくわかるんだけど、テレビが必要な人の方が多いと思う。当り前か。特に、ネットを使えない世代とか人々にとっては、多分テレビは重要な情報源だということが言いたい。
今は、テレビのスイッチを押したら何かしら映って、あとはチャンネル変える、と、音量調整、くらいの操作しか必要無いわけで。その人たちがテレビを見られなくなるというのは、やっぱり駄目だよなあと思う。
糸井さんも前に、テレビ観ててわからなかったことがない、ということを言っていた。誰にでもある程度分かるように、編集して流しているのだと。そうだなーと思う。テレビの罪というのも勿論あるけれど。
あと、テレビは、無料だ(消費の過程で取られてるかもしれないけど一応)。

いや彼は彼のキャラクターで、政治家でも何でもない立ち位置で言ってるってわかるから、いいと思うんだ。影響力ありそうだけど。というか、彼すごく負けず嫌いだなーと思う。


で、郵便は、私には必要で。
紙に文字書いて、包んで、切手貼ってポストに入れたらOKっていう手軽なシステムがね、その間に生じるタイムラグがね、家のポストに入ってるのを見つけた時の嬉しさがね、葉書及びその紙包みの質量がね、必要なわけだ。
働いてるときなんか何度それに救われたかわからん。

貰う側だけでなく、書くときだって楽しい。
前も書いたけど、パソコンと違って修正がきかないところも、勢いにまかせて書いちゃったところも(ブログでも多々あるが)、汚い字も(ごめん)それぞれ味がある。そもそもレターセットを選ぶっていうのは小さい頃から心踊るものだった。近所にいい文具店がほしいといつも思う。沖縄に足りないものは、いい雑貨屋と文具店だ。

まあ実は、今となっては、手紙を書く相手は一人だ。年賀状を書く相手やメールをする相手はいても、手紙となると一人だ。なんで彼女とはメールでなく手紙なのかは、関係の形成過程に手紙というツールがあまりに多く利用されたからであろうと思う。一応メールをしていた時期もあったけどな。
同じ言葉でも、口に出すことと、紙に文字で書くことが異なっているということをわかってたなと思う。

で、忙しくなっても、手紙を書く人でいたいなと思うという話。

文字は、書いた方がいいなと思う。なんとなく。
手紙をたくさん、本当にたくさん書いてきた。小さい頃から、宮古島に住む祖母だとか、転校する前の学校の友達や、同じ小学校の友達にすら。私は二回転校しているので、そのことも関係しているのかもしれないし、でも携帯が普及するまではみんな手紙をやりとりしていた、常に。手紙という手段は、私にとっては親しみ深い。
あと、文字が、特に自分の手で書いた文字の集合が、自分の分身みたいな気がするというのもある。自分の中を通ってきた言葉だし、文字だ。ものを作ってる感覚というか。パソコンで書いた文章をプリントアウトしてみたところで、自分じゃない気がする。ぱっと見自分のだとわからない。

余談だが、院時代も板書は手書きでとっていた(しかし理由の90%はワードを使いこなせないため。関係図とかで手間取る。今となればパワポでノートをとるかもしれん)。
法史学の時間にはA4の白紙に5枚くらい板書をとったので、いつも腱鞘炎になりかけた。
しかし、私はノートの取り方が壊滅的に下手らしい。後で見てもよくわからない。というか、授業というもの自体がほぼ議論中心なので、そうそう体系的に進むわけではなく。問いだけが羅列してあり、結論が出てないとか。直後に見ないと意味をなさないメモみたいなもので。
復習というか、まとめる時間が必要だってことだな。

で、結論としては、手書きとかかなり好きです、ということ。でいいのか。

October 16, 2009

「権利」について

先のエントリにも関連するのだけど、法律をやっているせいで、多分そうでない人よりぽんと「権利」「義務」「責任」「保障」「賠償」なんて小難しいようなシリアスなような言葉が出てきているのかもな、という気づき。
いや実際は小難しくも特別シリアスな顔をしなくてもいいんだけど。

院とかだとあんまり気にならないというか、そういう言葉を使ってもその言葉の意味するところとか、重みが共通しているので、うわ権利とか言っちゃってる、とか、賠償責任?なんか怖そう、なんていうことはないわけだけど(授業でやってるわけだし、それらの言葉を使わないとそういう会話できないし)、そうでない人と話す時に、これはこういう制度になっててとか、こういう趣旨で、とかいうことをつい小難しい言葉でやってしまい、家の中でも、父以外の家族とかに「?」って顔をされたりする。

なんでそういう言葉を使ってしまうかというと、簡単だからだ。説明をすっとばせる。そういう言葉というのはややこしい概念を一語で表したものだから。

で、多分他の学問でも同じだ。そこだけで使われてる専門用語ってのはある。
理系だと割にわかりやすいのかもしれない。SN比とかさ。あとは知らないけどさ。そういう。
SN比って一語で通じればそれですむのに、文系の私がいたためにSN比の説明をさせることになったという、そういう話。

ずっと前に、哲学専攻してた人と話したことがあって、その人が言う「超越」という言葉の意味が、私の理解している一般的な意味ではなくて、全然かみ合わないということがあったりした。
文系学問の専門用語は、多分一般的にも使われている言葉なのに意味が違うということがきっと多いんだろう(推測)。


法学でも、民法の時間に最初にこういうのを習う。

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「善意」「悪意」という言葉が民法上出てきますが、これは一般的な意味とは違います。「善意」は知らないという意味で、「悪意」は知っているという意味です。
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知ってるだけでめっちゃ悪い人みたいなのだ。ちなみに、事情を知ってて(本当はこの土地、この人が持ち主じゃないぽいけど買うみたいな)さらに害意がある人(本当の持ち主に恨みがあって困らせるために買うみたいな)は「背信的悪意者」で、もうかなり悪い人っぽい。「背信」「悪」。まあ悪いんだけど。

あと、「推定する」と「みなす」の違いとかね。
こういうのはばっちり区別できるし明解なのだけど、ニュアンス的に違うんだよな、っていうくらいなら多分山ほどある。法学上では、やたらと何もかも定義されているのである。憲法とは何か、形式的意味の憲法、実質的意味の憲法、とか、行政とは何か、とか、契約とは何か、とか。


で、「権利」とかって普段使う場合は、新鮮さがないというか、「権利」という言葉におそらく内包されているであろう、高揚感とか、自己や他者に対する敬意とか、意志的なものとか、そういうのは感覚的にない。あーそれ不法行為構成で人格権で差し止めしてさ、とか、その権利保護要件ってさ、とか、技術的な話で。用語として使っているわけだ。伝わるかなぁ。

だから、労働は権利なんだよなー、っていうのは、確かに憲法上保障された確固たる権利なんだなーって意味だけれども、文脈的に「労働は権利だ!」「私は労働する権利を持っている、ゆえに働く!」っていう風に思っているわけではないというか。あー伝わるかなあ。エクスクラメーションマークで伝わってほしいなあ。


日常的に、これは私の権利だ!って雄々しく思う場面はそんなになくて。
幸せが語られる時みたいに、権利もまた失って初めてその尊さに気づくものなんだろうと思う。
薬害とか、公害とか、選挙行けないとか、店を営業できないとか、働けないとか、人ごとだと思ってるけど、自分がそうなったら、目の前にその人がいたら、権利があったことに気づくと思う。
そうした時に、雄々しく「権利」を思うのだと思う。

October 15, 2009

労働について

労働って、権利なんだよなーと、今更ながらに思う。

しかも憲法で保障されている権利なんだよなと。

具体的に、A社は私に仕事させろ、とかいう権利はまあ無いわけだけれども、少なくとも国家が労働の機会を保障する政治的な義務はあるというのが、憲法学上の通説的見解ではあるらしい。

多分この労働の権利なるものを習ったのは小学生か中学生かの社会科の授業だったと思うのだが、労働が権利と言われても、ピンとこなかった。労働というか、お手伝いとか作業自体はやっていたけど、それによって対価をもらうという経験がないから当り前ではある。働くことが権利?って感じである。

初めて給料をもらったのは、高校生の頃だった。推薦で大学が決まったので、3月まで塾で中学生のチューターをやったのだった(校則で禁止されていたのかは知らない)。時給がたしか1400円で、結局月末に手渡しで5万円位もらえた(当時自分のコントロールしている口座は無かったから)。高校生に5万は結構大金である。というか、高校生の私に。
その時、ああ、働くってことは、お金がもらえるってことなんだなあとなんとなく実感した。その5万が何に消えたかは全く覚えてないのが無邪気なところである。

で、この、労働とお金が結びつくわけなんだけれども。
大学院を出て、いざ働いてみると、労働とお金は結びついていないような感覚を覚えたのだ。
いや、現実的には結びついているし、モチベーションのベースになっているのだと思うが、給料のため!と思って働いているわけではないというか、そんなこと経理の芳川さんが明細を各デスクに配る時に思い出す程度というか。
働くというそのこと自体がやりがいであり、自己実現であり、楽しい。何も対価がないのにパズルを解くとか、スポーツをするとか、そういうこととほぼ同列というか。いやそれよりも面白い。ずっと複雑だし、期待にこたえる、貢献している、という感覚がある。叱られるのは嫌だったけど、叱られることというのは大概、発展だった。

逆に、DS購入のための出費を補うために短期バイトをしたときなんかは、今日の1万のために、と何度思ったかしれない(いろいろあって、ノリで買ってしまったので予算に計上していなかったのだ)。あれは確実に給料のために労働していた。


最近ベーシックインカムという構想を知った。
これは、国民全員に一律で国から最低限生活できるお金を配る、というもので、年金制度とかは吸収されることになる、らしい。財源は税。だから、働かなくても生きていけるけど、その分のお金は働く人が税金で払う。働いた人は税金も取られるが、自分の自由になるお金は働いた分増える。つまり、最低限の生活は保障された上で、それ以上の生活がしたければ働く、という感じだ。
wikipediaも定義が数行、という段階なので、文芸春秋編 日本の論点PLUSでの記事をリンクしておく。

これが導入されたらどうなるんだろうなあと思ったのだが。みんな働かなくなるんだろうか。
共産主義の例はあれど(あの国々で何が起こっていたのかは勉強不足でよく知らない。今キューバとかで何が起こっているのかも。)、このベーシックインカムの場合は資産がとんとんと均されるのではないし、商品やサービスの多様性も無くならないからな。

で。働かなくていいよ、と言われても、働きたいと思うと思うなあ、ということ。その仕事が好きであればだけども。そのゲームやる必要ないよ、と言われてもやってしまうように。お金は関係なく。
というかお金の面でも、最低限の生活で満足しない人なんて沢山いるんじゃないかとも思う。
一方で病気とか怪我とかで働けないという人もいるわけで。


前に父とした会話を思い出す。
私はその時その仕事が気に入っていて、働くということが面白くて、働きたいから、社会に貢献できるから、働くのだと思っていた(今もかなりの割合でそう思っている)。
しかし彼は、「違う。食べるために働くんだよ。」と言った。
彼にとっての労働は、一次的には家族を養うためのものだった。彼は今までの過程で、そのためにいろいろなものを諦めたに違いなかった。
それが、成り立たなくなるとしたら。働かなくても食べていかれるとしたら。


まあ、実際どうなるのかはやってみなければわからない。面白みもない話だが、財源の問題もある。
そしてものすごく革新的で、推測するには社会、経済、教育、心理等々、影響が多岐に渡り過ぎる。全てのプレイヤーが利害関係を持つというか。
何にせよ、面白い構想だと思う。


余談。
昔のギリシャを連想した。
奴隷制を敷いたが故に、学問が発達したと。
最低限の生活が保障された時に、人々は何を生み出すのだろう。なんて。

October 13, 2009

TOWER RECORDS

久々に那覇の街に繰り出した。

買物は一人に限る。
と、いうのは、一人なら興味のあるものだけを好きなだけ吟味できるし、集中できるし、疲れたら休めるし、つまりコントローラブルだからだ。
そして今日の目的は本屋とCD屋だったので、尚更であった。

しかし、本もCDもAmazonでOKな今、久々に出向いた。特にタワレコ。
超なつかしい。タワレコ那覇店なんて高校以来かもしれない。

高校時代はCDを買うお金もないのに、試験後の開放感に乗じてよくタワレコに行った。
試験と時限数がやたらに多い学校ではあったが、皆陽気でよく歌を歌っていた気がする。

タワレコに行って何をするかというと、当時聴いていた米軍のラジオで流れている洋楽のCDを視聴するとか、友達とCDを薦め合うとか、やたら熱い手書きのポップなんかを読むとか、そういうことだったりした。なつかしすぎる。
タワレコは地域によってカスタマイズが激しいというイメージで(あくまでイメージなのだけど)、沖縄なら沖縄のアーティストをプッシュしていて、バーンとでかくディスプレイしてある。沖縄でだけ流行っている人たちというのもいる。多分どこの地方でもそうなのだと思う。皆いろいろ聴いてたけど、高校ではハイスタがかなり流行ってた気がする。

そんな中、私の目当てはbounceだった。
これはタワレコのフリーペーパーで、というかペーパーというには厚い、雑誌だ。100ページ弱はある。
その月にリリースされたCDの情報が、マイナーなものも拾ってあって、インタビュー記事とかいろいろ載っている。洋楽が多い。タワレコだもんね。
私は全然知らない人ばっかり載っているそれらの記事にはほぼ見向きもせず(知らないアーティストのアーティスティックすぎるセリフを読むほど暇ではなかった)、広告面ばかりを見ていた。
お気に入りはJUDY AND MARYのPOWER SOURCEの広告だったな。
知らないアーティストでも、広告がよければとっておいた。
それで、高校生活のせめてもの潤いにと、表紙もクリアなバインダーの裏側から貼り付けて、表紙にしていた。そんなことでも数学の時間が彩られるから素晴らしい。
皆それぞれに机の上を賑やかにしていた。文具に凝る子もいたし、バヤリースの缶をペン立てにしていたり(なつかし)、ムーミンの貯金箱を置いといたり(これは私だ)、そういや雑誌とか漫画置場もあったな。ベルセルクが並んでたな。

と、久々のタワレコがちっとも変ってなくて、本当にレイアウトもそのまんまで、でも高校生の頃は行かなかったジャズの棚の方へ足を踏み入れた私の方が変わったのだと気づいて、感慨にふける秋。

October 11, 2009

イノベーションというのは、往々にして起こそうと思ってそうなったわけじゃないんだよ

暑い暑いと言いつつも、秋めいてきている今日この頃。沖縄はやっと、秋です。
沖縄の秋は短い。たまに夏に戻ったりしてると、すぐに冬になる。

長崎で見た影絵の話とか、本当は書きたいのだが、気分的に違うので、先のメモを消化してみたい。

「もし~」前提の話、というやつ。
これははてブで見つけた。面白い。

広告β:一方ロシアが鉛筆を使うには


無断で引用。(あとで断っておこうかな)

以下引用----------------------------------

ちょっと好きなジョークがある。
アメリカのNASAは、宇宙飛行士を最初に宇宙に送り込んだとき、無重力状態ではボールペンが書けないことを発見した。
これではボールペンを持って行っても役に立たない。
NASAの科学者たちはこの問題に立ち向かうべく、10年の歳月と120億ドルの開発費をかけて研究を重ねた。
その結果ついに、無重力でも上下逆にしても水の中でも氷点下でも摂氏300度でも、どんな状況下でもどんな表面にでも書けるボールペンを開発した!!
一方ロシアは鉛筆を使った。
実話ではないらしいが、なにか、重要なことが含まれているような気がする。

トヨタだったか、彼らは「なぜ?」を5回繰り返すという。徹底的に考えて、カイゼンを進めていく。この徹底した態度は重要だ。しかしこれとはまた異なる、デザイナーの考え方が好きだ。彼らは、「なぜ?」から入っていって、最後は「もし~だったら」で出てくる。

冒頭のジョークでいうと、無重力状態でボールペンが書けないというところで「なぜ?」がはじまる。このまま「なぜ?」を繰り返すと、インクが無重力では機能しない、というところへ行き、そこからインクの液体としての特性がどうのこうの、という方面に解決を求めていくのだろう。でも、「なぜ?」を繰り返すと、袋小路に入っていくことがある。どこかで、「もし」を使わないといけない。「もし、ペンでなくてもよかったとしたら」。

以上引用----------------------------------


以前に、そのトヨタのWhy5回、というのの関連で、「なぜ」についてというのを書いた。
「なぜ」には複数の意味があって、かつ主体と客体で分かれるという話。
そういう整理をすれば、結構「なぜ」は使える、と個人的には思っている。


で。上記引用の、「なぜ」ではなく、「もし」が必要、という話だが、たとえば、「鉛筆で書けばいいじゃん」という発想は、「もし、ペンでなくてもよかったとしたら」というのの次にくるもの、ではある。
しかし、「なぜ、ペンでは書けないのか」→「重力の力を受ける、インク(液体)だからだ」→「インク(液体)じゃなければいいのだ」→「固体、たとえば鉛筆で書けばいいじゃん」という解の出し方もある。というか、そうなるよね。

で、このジョークの話においては、この「なぜ」より「もし」論法は当てはまらないんじゃないかなという話。引用の後に続くコロンブスの卵の話もそうだ。
いや、「なぜ」から入って「もし」で出てくる、で合ってるんだけど、「もし~でなくてもよかったら」で出てくる、だ、厳密に言えば。
つまり、「なぜ」という原因をつきとめて、その原因というか制約自体を無くせるとしたら?という発想パターンか。


と、いう風にまあ結局のところ、この、なぜ?なぜ?を繰り返すというのは、ある程度有効である。カイゼンと言われるように、既存のものやシステムなんかの「改善」には有効だ。
ただ、仕事をしてた時に、なぜを5回繰り返しても、ある狭い点にしか辿りつけない、と思った。複数あったとしても、それは狭い範囲に過ぎない、と。
で、多分、その「なぜ」で行き着いた場所の制約を否定したりしてみても、やっぱり画期的なことは起こらないことが多い。それは外せない制約だったりすることがほとんどだし。

イノベーションというのは、「なぜ」とその制約の否定「もし~でなかったら」だけでは辿りつけないものなんじゃないか、と思う。かといって「もし~でなかったら」ではなく、「もし~だったら」で辿りつけるかといったら、そういう文法を使ったからといってイノベーションを起こせるわけではないと思う。というか、「なぜ」に続くのは、現状を表す言葉だけど(「なぜやせないのか」とか。)「もし」って思ってみたところで続く言葉が見当たらなくて、その先がまさに欲しているアイディアなわけで、それを思いつくためのハウツーが求められてるんだっつの、ていう話なのやもしれぬ。

妄想力、もしくは貯蔵力とリンク力な気がするな。

妄想力って、つまりイメージする力なんだけど、私はこれが欠落しているので、これ以上説明できない。つまりこう、すごいことしてる人達って、こういう服があればいいなとか、こういう音楽があればいいなとか、こういうシステムがあればいいなとか、こういう世界があればいいな、ってイメージできる人なんじゃないかと思うのだ。推測。

で。もう一つの貯蔵力とリンク力ってのは。
いろんな発想、とか、構造、とか、構図、なんていうのの粋というか、本質を知っていて、それを貯め込んでおけるということ。
そしてそれらを縦横無尽に組み合わせたりすることができるということ。まあここでもイメージ力必要なんだけれども。

後者の方がトライはできそうだなとか思う。まあ何にせよ、インプットがないと話にならないな、と思った次第。創り出すというのは、本当にすごい。

October 8, 2009

こびとさんのこと

前の前くらいの適当なエントリで、考えてることメモみたいのを書いたが、あれは考えてることではなくて、考えようかなと思いついたお題、だ。
ついったーでもつぶやいたけど(このフレーズ最近多いな。ついったログをブログのエントリにもできるけど、好みじゃないのでやらない)、何か書く時というのは、それを具体的にいくつか思いつく時で、かつ文字に起こそうというやる気がある時だ。書けない時はそのどちらかが欠けている時だ。どちらも欠けていることもある。
で、思いつくまではやったよ、というのがメモだ。
これをエントリにするかどうかというのは、やる気とかやる気とかやる気にかかっている。

で、こびとさんの話。
なんだよこびとって、というのは、これである。
内田樹の研究室:こびとさんをたいせつに

引用すると、

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真の賢者は恐ろしいほどに頭がいいので、他の人がわからないことがすらすらわかるばかりか、自分がわかるはずのないこと(それについてそれまで一度も勉強したこともないし、興味をもったことさえないこと)についても、「あ、それはね」といきなりわかってしまう。
だから、自分でだって「ぎくり」とするはずなのである。
何でわかっちゃうんだろう。
そして、どうやらわれわれの知性というのは「二重底」になっているらしいということに思い至る。
私たちは自分の知らないことを知っている。
自分が知っていることについても、どうしてそれを知っているのかを知らない。
私たちが「問題」として意識するのは、その解き方が「なんとなくわかるような気がする」ものだけである。
なぜ、解いてもいないのに、「解けそうな気がする」のか。
それは解答するに先立って、私たちの知性の暗黙の次元がそれを「先駆的に解いている」からである。
私たちが寝入っている夜中に「こびとさん」が「じゃがいもの皮むき」をしてご飯の支度をしてくれているように、「二重底」の裏側のこちらからは見えないところで、「何か」がこつこつと「下ごしらえ」の仕事をしているのである。
そういう「こびとさん」的なものが「いる」と思っている人と思っていない人がいる。

(中略)

知的な人が陥る「スランプ」の多くは「こびとさんの死」のことである。
「こびとさん」へのフィードを忘れたことで、「自分の手持ちのものしか手元にない」状態に置き去りにされることがスランプである。
スランプというのは「自分にできることができなくなる」わけではない。
「自分にできること」はいつだってできる。
そうではなくて「自分にできるはずがないのにもかかわらず、できていたこと」ができなくなるのが「スランプ」なのである。
それはそれまで「こびとさん」がしていてくれた仕事だったのである。

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この、二重底というのは、わかる気がして。意識下というか。奥底にあるもの。コアのコア。

何かを考える時というのは、意識下のものを意識に持ち上げてくるような感覚がある。探るというか。
テーマが目の前に提示された瞬間は、考えというものはすぐ口に出せる状態ではない。自分がこう思っているとか、こう感じているとか、それが何故なのかとか。自分の考えは意識には上っていなくて、下の方に沈んでいるのを探し出すというか。探し探し話す。
引き出しと言ってもいいし、二重底と言ってもいいし、コアと言ってもいいし、こびとさんと言ってもいい。

あらかじめ答えを用意しているような、たとえばスピーチやプレゼンや面接とかのとき、これはあらかじめ意識に上らせているものを口から出しているだけである。
そうではなくて、議論とかもしくはこういうブログのエントリとか、何かしらを考えるときは、探す。それをなんとか形容して表面に出す。

そして、何か感じたことを表現するときには、こびとさん的なものに確認しているのかもしれないな、とか思った次第。いくつかの形容詞や比喩なんかを用いて、これくらいでまあいいか、とこびとさんが言うのを待つというか。

ちなみに、私のこびとさんは、私が言ったことが相手に誤って伝わっていたりすると、結構しつこく訂正したがる。私は大抵間に入って、完璧に理解されることはありえないわけですし、とか言ってみる。こびとさんは、自信があるときはよく働くが、落ち込むとなかなか大変であるので、私の仕事は彼の自信をなくさないようにすることである。
と、内田さんに倣って分析してみる。

レビュー雑感

あるブログで、何か考えていたことを寝かせてしまうと、本とか読んでるうちに同じようなこと書いてあったりして、自分のもとの考えと混ざるからいやだ、って書いてあったのだけど、書評を書いてて同じようなことを思った。
と、伊坂幸太郎の「魔王」を読了してメディアマーカーに登録して思った。

レビューを書くのは、勿論他者へのご案内というのもあるけれど、自分がそれを読んでどう感じたのかをメモっておくという機能も重視していて。その時の感覚というか。
でもこれの前に「おくりびと」ノベライズ版を妹から又借りして読んでしまった時は、原作かどうかを知りたくて検索してしまい。検索してる間にいろんな人の レビューが目の前を横切ったために、完全なる読後感とは違ってしまっている。というか、もう読後感とかどうでもよくなってしまって、説明に終始している。

考えていたことでもそうで、というか、私はあんまり自分の考えをあらかじめ持っているというタイプではないけれど、この考え方とこの考え方を踏まえて、こ ういう自説はいかがでしょう、という感じで書くことも多い。つまり、参考文献を示して、それと自説は差別化する。同期するときもあるけど。で、やっぱり私 も分けて考えたい派なのだろう。とか思った。

メディアマーカー
http://mediamarker.net/u/soh15/

October 7, 2009

はてブ

使い方があっているのかはよくわかっておりませんが、はてなブックマーク導入しました。
何気に素敵ですな。あのツール。ある意味ポータルというか。
タグでしぼって検索すると、読みたい分野かつ質のなかなかにいい記事がたくさん読める。

http://b.hatena.ne.jp/sohsh/

あと、Google readerも。
sで始まるメインアカウントでGmailつながってる人とかは共有できるんだけどなー。公開にはしてるんだけど。このブログのアカウントだと二重に作業しないといけないので微妙、ということで、はてブです。

FYIも兼ねてるので、ほんとは自分のはてブを表示できるウィジェットがほしいけど、ぱっと見無いっぽい。

October 5, 2009

memo-tweet

いとうせいこう氏のtwitterでのつぶやきがなんかかっこよくて彼のイメージ変わったのでメモ。

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ひるがえって中上健次の文の緊張感は改めて凄いなあ。さっき触れた物書き(俺はこれ以後二度と触れないし、読む気もない)の「時計の針は(略)ためらいがちに時を刻んでいる」なんて低俗な文を死ぬまで一行も書いてないもん。たった一度も。失敗作の中でさえ。

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俺、読書家なんてひとつも尊敬しないな。読むべき水準以下のものを読まない努力の方が、ずっと大事。

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シンガポール→鈴鹿 GPもだ

妹が、出張でシンガポールへ行って帰ってきた。

妹は専門学校の講師を4月から始めたばかりなのだが、安い給料の割に多忙で、家族で励ましながらも、そんな会社やめてしまえと口々に言っている。

今回は修学旅行の引率とかで(彼女はCAとかを目指すクラスの担任である)、企業見学とか空港見学をしてきたらしい。一流のおもてなしを見るために、ホテルはマンダリンオリエンタルである。いいなー。
で、いろいろ面白い話も聞けたらしい。仕事というのはどんな形でも勉強になる。
ひとしきり、いろいろ話を聞いたあと、妹が、「あ、そういえば、お土産があるの」というので、マーライオンのキーホルダーかなーと思ったら、これだった。





こ、これは。

「なんかね、シンガポールで探したんだけど、あんまりよくなくて、帰りに関空で乗り継ぎだったから、関空で買っちゃった。」

そうか。新しいね。

「あえての虎。」

うん。

「巨人グッズも探したんだけどね、無かった。羽田にはあるのに。」

うん。関西じゃ確実に売れないからね。
東京ドームに、上原は裏切り者って落書きあったしね。


でも何気にかっこよかったのでうれしい。中身はゴーフレット。


私が巨人を好きなのは、知ってる選手が多いからだし、いい選手が多いからだから、他のチームでも知ってる選手やいいなと思う選手は応援するのだが(阪神で言えば鳥谷とか鳥谷とか鳥谷とか能見とか林とか)、阪神ファンは好きじゃない。いや、違うな。阪神ファンは好きだ。面白いから。しかし巨人に異常に食ってかかる人たちが好きじゃない。うーん、違うな。厳密に言うとそれも面白いから好きなんだけど。
巨人が優勝した日に、「中日優勝おめでとう」ってつぶやく人とか(ファームのウエスタンで中日が優勝した。巨人は別リーグで、イースタンで優勝した。)、子供だなー、って思う(その人のことは嫌いじゃないんだけど)。いやーでも今考えたら嫌いじゃないわ。
まあ、今年は巨人ちょっと強すぎたな。虎にはあんま勝ってないけど。
阪神ファンは巨人ファンに強く出れるけど、巨人ファンは阪神ファンに強く出れないみたいのが、なんかある。強者と弱者という立場上というか。
アロンソファンだとシューマッハファンに強く出れるとか、ルノーファンだとフェラーリファンに強く出れるとか、あるけど逆はちょっと大人気ない感じがする。それも同じ原理で。でも結構フェラーリって昔弱くて、その時から思い入れあったり、フェラーリの車自体がラブな人っているから、意外と熱い人多いんだけど。
院の時のエクスターン先の担当の人もフェラーリ好きで、めっちゃ鈴鹿行ってて、ファンのためのツアーも当たってイタリアで乗ってきたっていうから、その嬉しそうな写真見ながら「私はフェラーリはちょっと」とか言えるはずもなく。


そうそう、F1鈴鹿はペナルティでアロンソ、バトン、バリチェロあたりグリッド降格だった(たしか)。
でも健闘した。でも10位以下って日本人ドライバーしか映らない。あとクラッシュの時。悲しい。
トヨタは予選でグロックがクラッシュして出られなかったからトゥルーリ1人だったけど、ちゃんと2位につけてよかったと思う。1位はレッドブルのベッテル。あれ、翼をさずけるやつ。3位はハミ。
今季は大分チームの力関係が変わった。コンストラクターズポイント、ブラウンGPが1位でレッドブルが2位だもの。ブラウンGPとか元ホンダでMBOしたチームなんだけど、ホンダの時は全然勝てなかったのに。

最近考えてることメモ。
・こびとさんの話
・「もし」。前提の話。
・浪費について
・魔王について
・親友について

October 4, 2009

国歌聴き比べ

F1は鈴鹿が始まっている。
予選Q2でのグロックのクラッシュは心配だが、何よりアロンソがフェラーリに移籍するというのが個人的には衝撃的というか。確かに彼には競争力のあるマシンに乗ってほしい、力を発揮してほしいというのはあるんだけれども、どうもあの跳ね馬と赤さが私の好みでないのである。赤いだろう、いくらなんでも。赤すぎるだろう。ルノーもちょっと前青一色もなあとは思っていたけど今のカラーリングはpopでかわいくて好き。まあいいや。

そういう話をしたいのではなくて、今日は国歌について。
昨夜頭痛により眠れず、小澤conducts世界の国歌/新日本フィルハーモニー交響楽団をiPodで聴いていた。このCDは、長野五輪の際に使われた小澤征爾指揮の新日本フィルが演奏した国歌集で、かなりいい。かなり綺麗だ。
何故このCDを持つに至ったかというと、2005年頃私は上記アロンソをかなり応援していて、ほぼ毎GP観ていて(大抵深夜の録画だけど。スカパー熱望していた。)、マイミクの方ならご存知だろうが、mixi日記はF1ばかりという有様であった。ていうか、F1放送してくれてフジテレビありがとうって思ってたけど、同時に実況と解説というか番組に右京はもういいから、とか、永井大がなんで司会なんだとか、シューマッハシューマッハってうるさいよ、とか、フジテレビに難癖つけていた、若かったのだ。

そんな中でアロンソが優勝すると、かつ生放送だと、スペイン国歌が聴けた(録画だとカット。あと、ルノーだったのでフランス国歌も流れる)。彼は唯一のスペイン人ドライバーで、かつスペイン国籍の企業(チーム)はF1に参戦していないので、スペイン国歌が流れるということがすなわち彼の優勝しかありえないのである。
それで、スペイン国歌聴きたいなあと思い立ってこのCDを手に入れることと相成ったわけである。

このCDには全部で67の国歌が収められている。
で。
スペイン国歌は何度も聴いたが、日本の国歌はあまり聴かなかった。
ご存知の通り、日本の国歌は「君が代」だが、「君が代」というその字面、響き、それがものすごくイデオロギッシュというか、なんとなく触れてはいけないものというか、こわいもの、みたいな感覚もあったし、私自身がその旋律が暗い、というか、重い、と思っていたのだった。好んで聴く音楽、ではなかった。

CDを通して聴いていると、明るい曲、鼓舞するような曲がほとんどを占めていることに気づく。アメリカやフランスはよく聴くので皆知っていると思うけど、ギリシャとキプロスの国歌(この2つの国は国歌が同じである)はまるでワルツだ。イギリスとリヒテンシュタイン(この2つも同じ曲。歌詞が異なる。)も明るいし、勿論スペインも明るいし、まあとにかく明るい。その地方の民謡がベースになっていたりしてお国柄は出ているのだが、正統性というか、一体感というか、感動的というか、そういう感じなのだ。

その中で、目を引いてしまうのが、日本と、イスラエルだ。

イスラエルの国歌は、Hatikvaといい(読み方は知らない)、希望、という意味らしい。
この曲は、タイトルに反して、もう、とにかく暗い。悲哀に満ち満ちている。何事かと思うほどに美しくかなしい旋律である。ユダヤ人達の放浪の歴史が刻み込まれている。彼等の念願かなっての建国の際につくられた曲にもかかわらず、とにかく悲哀に満ちているのだ。これから前を向いて、この国を新しく、立派で健やかな国にしていこう、と、そういう感じではないのだ。アメリカとかほかの国はそんな感じなのに、イスラエルは違う。重荷を負って、罪を背負い、この辛く苦渋に満ちた世界を、生き抜いて見せよう、わが同朋たちよ、という感じである。
そういえば、イスラエル民謡の「シャローム」も悲しげだ。
もしかしたら、彼等の世界観なのかもしれない。興味引かれるところである。

そして、日本。
日本の国歌を改めて聴いてみた。歌詞は入っていない。
他の国々の国歌を聴いた後にこれを聴いて、ものすごく美しい、と思った。気づかなかったが、あの旋律は、すごい。なんだかわからないけど、他の国とは一線を画している。
もののけ姫の世界を彷彿とさせるような、豊かな森が目に浮かぶ。穏やかで、終始静かな、盛り上がり過ぎることなく、しかし厳かな。終わり方の妙。後を引く。日本らしい曲だと思う。

小澤征爾が、オーケストラでやったというのがまた良かったのかもしれない。彼がこれらの演奏をする上で一番大事にしたのは、彼や編曲者の解釈でやるのではなくて、その国の人が聞いてよかったな、と思われるものにしなければならない、ということだったと、ライナーノーツには書いてある。音楽を愛している日本人が、日本人がこれを聴いて、よかったなと思うようなものを作ろうとしたら、こうなったのかと、思った。

「君が代」って聞くだけで顔をしかめる人達が結構いるので、君が代をこれだけ褒めちぎったのも初めてだけど、音楽に罪はないのだ。本当にそうだ、音楽には罪はない。
歌詞だって特に悪いとは思わない、というか、狂ってるとかばかげているとかは思わない。歌詞は古今集の賀歌からとったとされているらしい。結構きれいな詩だと思う。
天皇の御世がずっと続きますように、っていう歌だけれど、戦争に負けたから、その指揮をとるのに天皇も加担したから、国民の団結を強めるために使われたから、国民がそれに丸めこまれて強制されたから、そんな歌詞はもう見たくもない、ということなのかもしれない。そう思う人がいるのも当然といえば当然なのかもしれないし、それは心から理解はできないまでもなんとなく理解はできる。
私も音楽を強制するのはいかんと思う。強いられるのが嫌いだから、これも嫌いだ。


音楽って、歌詞がなければ、意味を考えなくていい、自分で意味を与えられるものだからいいなあと思っていたのだが、その旋律自体が意味をもった、国単位で思い入れがこもった音楽というものが、あるなあという発見。
でも、それの意味をとっぱらって、純粋に音楽として聴いてみたら、楽しいかもよ、という提案。
スペインの国歌なんかは、私にとってはアロンソに関連する曲、ただそれだけだったから、普通に好きになったんだと思う。

2009WBC決勝の「君が代」がちょっと違った感じでなかなかよかったので、ぺた。映像なし、音楽だけで聴いてほしい。

WBC決勝 不思議なアレンジの君が代(youtube)



・参考
スペイン国歌(youtube)

アメリカ合衆国国歌(youtube)

フランス共和国国歌(youtube)

ギリシャ共和国国歌(youtube)

キプロス共和国(youtube)

イギリス(グレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国)国歌(youtube)

リヒテンシュタイン国歌(youtube)


イスラエル国歌(youtube)

日本国歌(youtube)

September 30, 2009

利潤動機なるものを疑え

3分間ドラッカー【第161回】 2009年09月03日/上田惇生

引用。

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利潤動機とそこから派生する利益最大化の概念は、事業の機能、目的、マネジメントとは無関係である。無関係であるよりも悪い。害を与える。利益の本質に対する社会の誤解と、利益に対する根強い反感の原因となっている。誤解や反感こそ産業社会にとっての病原菌である。

 ドラッカーは、利益を目的とすることは誤りだと口を酸っぱくして言う。利益とは、世のため人のために、明日もっとよい事業をするための必要条件である。それは目的や目標よりもきつい条件である。実現できなければ存続さえ怪しくなるというものである。

未来について唯一確かなものは不確実性すなわちリスクである。リスクの語源が、アラビア語の「今日の糧を稼ぐ」であることは偶然ではない。
 未来のリスクを賄うための利益、社会にとっての富の創出能力を維持するための利益を上げることは、企業にとって絶対の条件である。

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定義について

あるところで、定義の話をしていて思ったんだけど、あと、twitterに昨日何気なくつぶやいたんだけど、定義というものは、「一般的に統一されている側面」と、「個々人によって違う側面」とがあるんじゃないかと。
定義っていうものの意味の範囲が私は他と比べてどうやら広い。

なんでも定義。それを説明しようとしてたら定義。

もしアイスクリームを定義しようとしたら、レシピから定義する方法もあるだろうし、味とか温度とかでもあるだろうし、業界とかサプライチェーンとかでもあるだろうし、思い出とか好みでもあるだろうし、もう何でもありみたいな感じだ。ちょっと言い過ぎた。

大抵は、定義といったら、
「一般的に統一されている側面」のことだろうと思う。みんなに通じるというか。
でも、
「個々人によって違う側面」というのもあるだろうと思うわけで。個人的な。その人だけの「アイスクリーム」ってあると思うのだ。その人の定義する「アイスクリーム」。よく、野球選手とかに、あなたにとって「野球」とは?みたいな質問するけど、そういう。そこで彼は定義するわけだ、自分にとっての「野球」を。


で、セカイカメラの出現によって、その個人の中にあった個人的な「定義」が、セカイにすべり込むんじゃないかって、思ったり思わなかったりした、昨夜。セカイカメラってのは、私の理解では、iPhoneのアプリで、iPhoneを通して場所にタグを付けられて、iPhoneを通してそのタグを皆が見られる、つまり普通の視界に漫画の吹き出しみたいのがくっついてて、いろんな人の感想だとか情報だとかが見られるというもの。ここ数日の私の理解では。

で、定義の話なのだが、そういう「定義」ってみんなある程度は同じものを持ってるんだけれども、そういうのっていつ形成されたのかなと思って。いつわかったのかなと。「好き」っていう感情は、どうやってその感情が「好き」だと知ったのかしらと。
今日おじゃる丸がやってて、見てたら、小鬼のキスケが、「恋」について教えてもらうんだけれども、最初「ドキドキするものだ」と教えてもらい、ドキドキしたので、これが「恋」かなーと思って聞きに行ったら、それは違う、恋は「もじもじするものだ」、と言われ。で、ドキドキももじもじもしたのだけどそれも恋ではなくて、次は「その人に会えないといらいらするものだ」と。で、その要件も満たしたが恋じゃなくて。わからない、という内容で。
私たちはキスケみたいなことにはならない。なぜかならない。それで、なんでだろうと。いつそれを「恋」だと知るのだろうと。誰にも教えてもらってないのに。
これがみかんだよ、とかいうのはわかる。指し示して教えてくれるから、みかんとその物体が結びつく。でも、これが恋だよとは、教えてもらってない。む、漫画とかかなあ。そんな気がしてきた。生まれてきたときには全部名前がついていて、それを表現したものがあふれていて、私たちは難なく定義を手に入れているのか。

最近、江國香織の「都の子」を読み返す機会があって。彼女は「泣いた赤おに」を読んだ時に、切ないという感情を理解した、らしい。
そういう記憶、いいなあと思う。

でも、色弱の先輩の話を思い出す。
彼は小さい頃に、色盲、色弱のテストのための絵を見せられた。クラス全員が、この絵の中の線をなぞって、と言われ、できたのに、彼はできなかった。最初はふざけてるのかと思われた、と言っていた。その絵は、赤い地に緑の線が斜めに一本引かれた絵だった、らしい。赤と緑の区別がつきにくいから、彼はなぞれなかった。
それは、「赤」と「緑」の違い、つまり定義がはっきりしていなかったということだ。「赤」がどういう色で「緑」がどういう色だ、ということを認識していなかったということ。
多分、私とて、そういうものはあるのだろう。言葉として違うことは知っているけど、ちゃんとした違いはわからないというか。
手に入りにくい定義もある。

でも、基本的には、それぞれ自分なりに世界を知覚して、それでいいじゃない、と思う。
定義は必要な時に必要な分でやればいい。時効の援用権者の定義とかね。くそー定義ばっかりだぜ。

September 27, 2009

ポイント

ここ沖縄では、いろいろな番組が遅れてやってくる。
チャンネル数が少ないので、東京でやっていても沖縄ではやらないものもあるし、時間を変えてやっているものもある。そういうところも、田舎の人が、東京はいいなあと、リアルタイムでオンエアなのかい、と、劣等感を抱くポイントとなりうる。これが離島へ行くと更に、チャンネル数が減り、本島はいいなあ、と、そういう話になる。よくないと思うねこれは。今の時代に。まあ変わっていくのだろうけど。


で、そのおかげで、だが、今日の昼間にガイアの夜明け(2009.8.25放送分)を見た。本当はBS JAPANでもっと早く見れるのだが、夜とかはテレビが皆の共有なのでなかなか難しい(うちは方針で、テレビを一台しか置かないことにしている)。

その回は、ポイントビジネス。しっかり見たわけではないのだが、最後に取り上げられたサイモンズという会社のやってることが、なんだか面白そうだった。
失効ポイントの有効活用、というのがそれ。

店にその会社のカードに加盟してもらい、加盟店でのポイントは一元化して貯められる。客にはポイントの集約につながるメリットがある。
店には発行するポイント分の金額を会社に払ってもらう。今まで失効したポイントは店に還元されていた形になっていたが、これを先に吸い上げる。客がポイントを使えばなくなるが、ポイントが使われないまま失効すると、その分が会社にプールされる。これを地域活性化とか、社会貢献につかえるのではないか、というビジネスらしい。もう実際に寄付している。
今は普及と加盟店を増やすのに頑張っているという段階。取材当時で300社くらいって言ってたかな。
東京農大の学生に加盟してもらうとか、中田英寿に会って、協力をお願いしたりするシーンもあった。

こういうのを見ると、スキームとか商品を考えるのも大切だけど、地道な営業活動がどうしても重要だよなと思う。これがないとせっかくのスキームも生きないし、何も始まらない。営業。官と民の違いでもある。
もう、本当に、大変そうだ。営業の人たちはすごい。前にいた会社は社長が仕事を取ってくるトップ営業で、私たちはほとんど営業をやらなくてよかったわけだが。

で。なるほどねー先に吸い上げるわけね。と思った。店には負担が増す。
番組によれば、発行されるポイントの総額は年間1兆円、うち使用されるのが約6000億円、未使用で失効するのが4000億円、だそうだ。単純に当てはめれば、今までのポイントの出費の4割増しで出費が増える。加盟するだろうか?
しかし、クレジットカードでも、電子マネーでも、人々が持ては、店側は参入する。そういうものなのかもしれない。

CSR関係は最近環境への関心の高まりもあって、いろいろ皆やっていると思うのだが、これも面白いなと思った次第。前の会社でもCSRもポイントも注目していたのに、思いつけなかったよなあと。
競合はいるのかしら。

ていうか、株主にウエルインベストメント株式会社 がいた。

参考
サイモンズ・ポイントカード

September 26, 2009

もやし

私信に近いが。

『食費の節約・節約メニュー』に関するアンケート
● 73.7%が1年前に比べて「夕食費を節約している」
● 節約メニューによく使う食材はダントツで「もやし」

「もやし」。
FJB!
我等のもやしがダントツだよ。

学生はお金がない。もやしは心の友、家計の友。30円で買える。傷みやすいのが玉に瑕。そんなもやしを愛するゼミ仲間が彼、FJBであった。今はシンガポールセレブだが、かつてはもやしを愛してやまない心優しい人だったのだ(今もそうだと願うところである)。もやしは、漢字で書くと「萌やし」なのだと発見したのもこの頃であった。ゼミ生がこぞって高木やに通い詰めたのも、きっともやしを求めてのことに違いない(私は何度も断っている。だってあほみたいに辛い)。

だいたい、「もやし」というのがいい。あくまで人間が萌やしている、というスタンス。萌やす、というのは、芽を出させるという意味である。「春雨のふるに思ひはきえなくていとど思ひのめを萌やすらむ」という歌もあるようである(goo先生がそう言っていた)。
どっちかというと、もやしサイドから見れば「萌やされ」である。それか「萌え」である。数年前からの新語「萌え」との関係性は関知するところではない。


ただ、反省すべきは、もやし料理のバリエーションを広げる努力を怠っていたというところにあろう。
アンケート結果によれば、皆下記のような料理を作っているようだ。

<様々なもやし料理>
・ もやし料理(ナムル・炒めなど)
・ もやしのコンソメスープ
・ もやしのなんちゃってミートソーススパゲティ
・ もやしポン酢                      ・・・など

様々なもやし料理、の下に、まず「もやし料理」と来ているのが、もしかしてあんまりできない子なのかな、と思うけれども(レベル合わせて、・ナムル ・もやし炒め であろう)、こんなにバリエーションがあるのかと、もやしをまた見直す次第。
私など野菜炒めとか豆腐チャンプルに加える程度のもやし活用度で、恥ずかしい限り。

何はともあれ、もやし農家素晴らしい。


※追記
FJB氏が、更に広げてもやしと人間の関係性の展開を示唆するようなエントリを書かれていたのでここに記す。

寂しさについて

昨晩、久々にTelefon Tel Avivを聴いたら、なんというか、まあ有り体に言うと、病んでいて。
東京にいた最後の二年間くらい、つまり2006年の夏から2008年夏くらいまで、これを好んで聴いていたというのは、今とはかなり違った精神状態だったのだろうと思うわけで。
どういう曲かというと、こういう曲である。



これを聴きながら、夜のお台場(テレコムセンター付近。人通りはほぼ無い。)を散歩していたのだけど。あと通勤中も聴いていた。朝から。

こういう曲つまり東京に住んでいた時聴いていた曲から想起される思い出というものが、悉く「寂しい」という感情を伴っていることに気が付いた。
それは過去のものだからというのではなくて、東京で生活していた間ずっと、常に、寂しかったのだということ。友人といても、サークルで騒いでいても、恋人といても、そうだったのだということ。

そしてその寂しさを、私は好きだったということ。自分の内側にずっとあった、帰るべき場所とでも言おうか、そういうもの。人は誰しもひとりである、という基本に戻るというか。

音楽を聴くときは大抵一人だから、そういう記憶が多いのもあるかもしれない。
真冬に銀座の街を歩いてバイトに向かうとき、とか、同じく真冬に銀座に呼び出されて待たされた間散策したときとか、早朝に大学へ向かう道、とか、台場でフジテレビのスタジオを見ながら散策した道とか、平日の真昼にがらがらのゆりかもめに乗っていたとき、とか、秋の夜に窓を開けて寝っ転がっていたとき、とか、千葉のだだっ広い公園で芝生と空ばかり眺めてぼーっとしていたときとか。
思えばよくぼんやりしていた。

寂しさは、親しいものだった。憧れてさえいた。誰しも、そうなのかもしれない。本能的なものかもしれない。一人は冷静になれる。自分が自分を支えている肉体であることを確認できる。
「僕の地球を守って」という古い漫画があるけれど(ちなみに名作)、一巻の最初に、主人公の女の子が月を見上げて、なぜか、帰りたい、と思うシーンがある。彼女は結局後の展開で、月に関係のあることがわかるのだけれども。
しかし夜空を見ていると、同じように、帰りたい、と思う。漫画に影響されているのでは全然ないと思うが、寂しさと、空に思いを馳せる気持ちが混ざってそうなるのだろうか。


少し前に糸井氏が、さびしさってのは贅沢な感情だ、と書いていた。全部含まれているから、と。
確かにそうもいえるかもしれぬ。楽しさや嬉しさや悲しさなんかを経ての寂しさなのかもしれぬ。それが以前はあって、今はないというような。ある状態に焦がれる状態というか。
「いきの構造」という本は「いき(粋)」について仔細に分析したとても面白い本だが、その「いき」の構成要素としての「渋味」についてこんな記述がある。
「渋味は甘味の否定には相違ないが、その否定は忘却とともに回想を可能とする否定である。逆説のようであるが、渋味には艶がある。」
寂しさにも、それが言えるのかも知れぬ。

September 24, 2009

内心と行動の一致・不一致について思うこと

意思と表示について。

心の中で思っているだけでは、外の人にはわからない。
口に出すとか、文章にするとか、表情で表すとか、何らかの形で表に現れなければその人の中で何が起こっているのかはわからない。
もっというと、実は表わされたところで、実際その人の内面でその表示と同じ思いがあるとは限らない。顔で笑って心で泣いているのかもしれないし、笑顔で悪意を持っている人も、そっけなくても好意を持っている人も、いるわけである。

極論すれば、心の中で何を思っていても、外に出るのが他者にいい影響を及ぼすものであれば問題ない、ということもできる。

人に優しくしなさい、というのは、優しい気持ちを抱かなくても、優しいと思われる行動によって達成される。泣いている人にハンカチを差し出すのは、優しい気持ちでなくてもできる。でもその行動を見た人は、この人は優しい、と思う。もしかしたらこの人がその場にいた誰かの高評価を得る目的でそのような行動をとったのだとしても、外からはわからない。


わからないけれど、他者を欺いていると思う。不当に高い評価を得たままになってしまう。これがフェアじゃないと思う。

自分の内面と、それについての他者からの理解が一致するということは、安らかなことだと思う。正直であるということ。
ハンカチを差し出したのが、優しさとは違った義務感のようなものであったとしたら、この人は義務感からハンカチを差し出したのだと理解されたい、ということ。


例えば、誰かが悲しんでいるとき、私も悲しくなれればいいのに、と思う。
一緒に悲しくなって、泣いたり怒ったり、できればいいのにと思う。自分の内面も悲しければ、堂々と行動でも悲しがることができる。悲しい気持ちに嘘偽りがなければ、この人も悲しんでくれている、という評価だって後ろめたくない。
ところが残念ながら、私にはその能力が無い。イマジネーションが足りない。その人になりきれない。大抵、その人が悲しんでいることが悲しい、という軽微な悲しみしかやってこない。あとは困惑。

その人が求めているのが、何かの解決策であれば、一生懸命考えてあげることもできる。
しかしほとんどの場合、求めているのは、一緒に悲しんでほしい、悲しみにつきあってほしい、ということである。
私は想像力を振り絞って、何か言葉を探す。

そういうときに、割り切って、悲しくはないんだけれども、とても悲しいという表現をしてもいい、と考えられないだろうか、と思う。内面の事実とは違う評価を受けても構わないと開き直れたらどうだろうと。
それが彼彼女が望んでいることなのだから、私がそこを納得すれば、ベストな結果になるのではないかと。その人にとってはそれが真実になるのだから、いいではないかと。優しい嘘というやつだ。

多分、役者も同じことをしていると思う。芸術のために嘘を高度に高めた技だと思う。そしてその嘘を、皆が知っているという前提でやっている。
嘘も方便なのである。目的が正当であれば、よいのではないか。


頭ではそう思っていても、なかなか。
正当かどうかなんて、誰にわかる?何かのきっかけで私の本心を知って、その人は傷つくんじゃないか?
嘘は所詮、嘘。
嘘ですと断った上でなければ許されないものなのではないか。

嘘は負債のようなもので、負えば負うほど管理が難しい。帳尻を合わせるのに四苦八苦。
大人なんだから、いくらかの負債は必要なのだろうし、それを管理する能力くらい身につけなければならないのかもしれないが。

そんな自分の負担も考えて、結局私は悲しむ人の前でおろおろするしかない。


くるりの「ホームラン」という歌に、こんな歌詞がある。

「誰かの不幸せに 僕の涙はいらないから」



そんなわけで、私は今日も案外正直に生きている。

September 23, 2009

紺碧

妹が何かの拍子で、
「王者と覇者の違いって分かる?」
と聞いてきた。

「王者というのは、人心を掌握して治める者のことで、覇者は力で捻じ伏せて治める者のことを言うんだって。漢文でやったんだ。」


早稲田は「覇者 覇者 早稲田」で、慶應は「陸の王者 慶應」であることに、いささかの敗北感を覚えた。前者は早稲田の応援歌「紺碧の空」、後者は慶應の応援歌「若き血」である。
しかも聞けば、「紺碧の空」の方が「若き血」より後に作ったものではないか。光輝あまねきとか、歌詞多少かぶってるじゃないか。

ただ、「若き血」はたしかに、いい歌。というか、実は私も歌える。院には慶応出身もいたから教わったのだ。
その後、慶應側の攻撃の時慶應サイドの演奏にあわせてつい口ずさみ、周りの早稲田陣営から変な顔をされた。

余談だが、早慶戦の際、学部が慶應で院が早稲田という人々のアイデンティティは崩壊しかけている。院の仲間たちからは、お前まだあっち側なのか、捨てろ、そんなもの捨ててしまえ!身も心もえんじ色に染まるのだ!と言われ、改宗を迫られるが、たとえ応援歌でも「慶應ぶっつぶせ」なんて言えないのが彼らである。「慶應」を「低脳」に替えた替え歌を聴いて激怒するのが彼らである。
そして早稲田の中で三田会(慶應出身者の会は大抵三田会という。早稲田は稲門会。)を結成し、そこだけで許される「若き血」を歌う喜びに心震わせるのである。

あーなんか早慶戦で皆で肩組んで紺碧やりたいなー。

September 21, 2009

ハードボイルドひるさがり

今日外出から帰宅した際。

私  「はやくドア開けてよ」
妹1 「まあ待ちなよ」
妹2 「ハードボイルド!」
妹2 「ハードボイルドってさー、固ゆでって意味だよねー。ハードボイルドエッグだよねー」
私  「うわーまじだ。boiledだ。」
妹2 「イケメンハンプティダンプティみたいだよね」
妹1 「固ゆでハンプティダンプティ!」
私  「割れない!」(割れます。)


goo辞書より

(卵の)固ゆでの意から転じて、冷酷な、非情なの意
(1)第一次大戦後アメリカ文学に現れた創作態度。現実の冷酷・非情な事柄を、情緒表現をおさえた簡潔な文体で描写していこうとする。ヘミングウェーの初期の短編がその代表的なもの。
(2)感情をおさえた行動的な主人公の登場する探偵小説の一ジャンル。D =ハメット・ R =チャンドラーなどがその代表的な作家。

まじだ。どう転じたら固ゆでが冷酷非情になるのだ。
ていうか妹2(17才)が博識。

責任について

折角なので、もう少し筆を進めてみようと思う。

先のエントリでは、責任をこう定義した。
「責任というのは、何かの物事から生じる不利益を被ることである。償うことである。」

日本語の普段の用法とは若干異なると思う。私のした定義の方が狭い。
責任というのは、一つに、責任をとる、とか使われる場合がある。具体的に何か代償を払うことである。つまり私の定義した、「責任というのは、何かの物事から生じる不利益を被ることである。償うことである。」ということ。
もう一つ、責任を感じる、とか、責任感、とか使われる場合の「責任」は、また違った意味合いを持つものであろうと思う。これは、具体的に責任をとるということではないが、考えたり行動したりする上で重視する、とか、制約を課するとか、そういう意味であろうと思う。心の中のこと、あり方のこと、内面的なことである。

前者の「責任」について。
Aさんが「責任をとる」、という場合。Aさんはどういうことになるのか。
会社でのミスだった場合、上司や同僚に謝る、とか、取引先に謝るとか、そういうことになる。その人のせい、という、対外的評価にさらされることになる。そしてそれに応じた対応をする。残業したり休日出勤をしたりするかもしれない。悪くすると降格、辞職とかになるかもしれない。
法的に、損害賠償責任がある、と言われた場合、これは賠償をする責任を負う。つまりお金を払わなくてはならないということになる。
刑事責任がある、という場合には、自分の犯した犯罪につき、刑罰を受けなくてはならなくなる。
ケースバイだが、まあそういうものだろうと思う。つまり、前エントリで定義したようなことだ。不利益を被ったり、償ったりすること。

そして、後者の場合について。
Aさんは責任感がある、とか、そのことについて責任を感じています、とか。
これは、~しなくてはならない、とか、~はわたしのせいだ、とか、内面的に(心の中で)思うことだろうと思う。
そう思うことによって、行動につながることもある。この仕事が終わるまでは帰れない、なぜなら顧客に迷惑がかかるから、なんてのは内面の責任感により仕事を続けるという行動につながっている。
子供が悪いことをしたのは親である私の責任だ、申し訳ない、なんてのは、内面で責任を感じたことにより謝るという行動につながっている。で、別に行動につながらない場合もある、勿論。
もといた会社の先輩はよく言っていた。「責任感なんて僕は大嫌いなんだ。責任感なんていうのは人をうまく使って、しばりつけるための都合のいい言葉に過ぎないからさ。」

近所のサイトに、こういう言葉があった。

「思う」だけでは他者にとっては無いのと変わらないと、基本的なスタンスとしては僕は思っている。責任にせよ誠実さにせよ優しさにせよね。責任感の強さの度合いが「責任のまっとう具合」に加味されはしないし、加味されるべきではないと思う。

多分、彼の言っている「責任」は、後者の方の意味、つまり、責任感とか、責任を感じている、とかの心の話を前提にしている、と思う。それか、もしかすると、責任感を感じているだけでは、責任をとったということにはならない、と言っているのかもしれない。

で、責任感を外部的に評価するという話であれば、それは外部的に表示されないと評価のしようがないので、上記引用はわかる。ただ、物事として捉える場合には、内面の部分も含めるべきだろうと思う。他者にとっては無いのと変わらなくても、本人にとってはあるからだ。責任感のあるなしは、外側からだけでは決められない。
で、前述のように、責任感があるだけでは責任をとったことにはならないのは勿論だと思う。私は「責任をとる」ことと、内面の問題に、定義を分けたが、そういう言い方もできると思う。

内面の意思と表示の間の問題というものについて、法学でも民法の初期に学ぶのであるが(主に。他の憲法や法律でも学ぶけど)、その話はまた今度。

で、私は前エントリで、「責任というのは、何かの物事から生じる不利益を被ることである。償うことである。」と定義した。これは外面的な話である。具体的にどうなるの、っていう話である。
これに内面的な、つまり~しなきゃとか、気に病むとか、そういう心の中の話を組み込まなかったのは、前エントリ内での文脈もあるが、それはあんまり問題にならないからである。具体的にどうなるの、っていうのが結局実害だからである。いざ責任をとらなければならないとなったときに、問題になるのはそこが主だからである。

私は責任というものについて、割にパッケージ化された考えを持っていて。それは以前に考えたことがあるからなのだが、それは少し前まで、責任というものを怖がっていたからである。
責任をとらなければならない、とか、責任ある地位、とか、そういうものが怖かったのである。
そこで、なぜ怖いのかを考えてみたわけなのである。考えることは大事である。考えれば大抵のことはわかるのだ。
出た答えは、責任というものがどういうものかということを明確に認識していなかったから、である。簡単ー。お化けと一緒である。わからんものは怖いのである。
で、責任を負うと、要するに、こうこうこうなるわけね、とわかってからは、怖くなくなった。責任の範囲は事前にまあだいたいわかるだろう。最悪辞職、とか、よくて社長に怒られる、とか。それをする覚悟ができていればいいわけだ。できなきゃやらなければいい。それだけだ。

私見。

※追記(090921.PM3)
補足。大体同じようなことが書いてあったが、辞書を一応参照することにする。
上記の文章中では、「責任」と、「責任をとる」「責任感」のそれぞれの定義が混乱して記載されているふしがあったため。

引用:goo辞書
(1)自分が引き受けて行わなければならない任務。義務。
   「―を果たす」「保護者としての―」
(2)自分がかかわった事柄や行為から生じた結果に対して負う義務や償い。
   「―をとって辞職する」「だれの―でもない」「―の所在」「―転嫁」
(3)〔法〕 法律上の不利益または制裁を負わされること。狭義では、違法な行為をした者に対する法的な制裁。民事責任と刑事責任とがある。

September 20, 2009

強いられること

強いられることが嫌いである。かなり嫌いである。

違う考えの人がいても全然いいけど、その人が私にそれを強いようとすればかなり拒否する。反感を持つ。こと考えにおいては、強いられて変えられるようなものでもない。
大体何の権限があって強いてくるのか意味が分からん。

逆に私の考えと違う考えの人に、強いることはしないでいようと思っている。
自分の考えは開示するし、こう考える方法もあるよと言うことはあるけれど、あんたのそれ間違ってるよとか、考え方がおかしいとか、そんなのは言わない。それは間違ってもおかしくもないからだ。(漢字が間違ってるとか日本語がおかしいとかは言うよ。言う言う。)
もしある人が、間違ってるとかおかしいとか言ったとき、それもその人の考えである。という風に私は受け止めている。けど、世の中には間違ってるとかおかしいとか言われて、それが「本当に」間違っていたりおかしかったりする、と思う人もいるから(うちの妹みたいに)、言わないでいたほうがいいと思う。
私は個人主義である。

しかしそれを冷たいと言われることは多くある。
関わりたくないと捉えられるらしい。または、こうしろと言われたいらしい。
前者はともかく、後者はそりゃその方が楽である。決めるという労力を使わなくていいし、もし何か起こったらこうしろと言ったからこうなった、といういいわけができる。決定と責任を回避するのである。甘えすぎである。
もしかするとこういう態度が冷たいのかも知れん。

10代ならともかく、20過ぎたら自分のことに関する決定と責任を負うことくらいやれ、と思う。
というか、責任に関しては、自分のことなのだから、これはもう排他的一身専属的に自分が責任を負うのである。責任というのは、何かの物事から生じる不利益を被ることである。償うことである。自分のことに関するものなら、誰かの決定に従って行動したとしても、恋人関係が破綻しようが、仕事がうまくいかなかろうが、不利益を被るのは自分であって、その誰かではありえない。せいぜいその決定をした人をなじるくらいのものである。そんなリスク負ってまで、こうしろと言われたいか?と思う。

や、別に怒ってはいない。

で、強いられることが嫌いなのである。
人がすることで嫌いなことは少ないけど(自分と関係ないから)、強いられるのはなんか気に食わん。自分がそれに従わないつまり影響を受けないとしても、気に食わん。

あ、でも。
仕事とかで何かをすることを要請されるとか、そんなのは勿論やる。でもおかしいと思ったら、言う。で、納得したらやる。
仕事でなくても。
納得できてしまえば、強いられる、にはならなくなるのである。
だから、説得される、はいい。説明が入るとOKなのか。わかった。自己完結した。

September 19, 2009

人生―ジェンガモデル

私はこの部屋にあるもっとも神聖な書物、すなわちアルファベット順電話帳に誓って真実のみを述べる。
人生はジェンガであると。

というのは。先のエントリのコメント欄にいただいたコメントがそれを示唆するものだったからである。
更に言うと、先の先のメモエントリにおいてメモしておいた友人の考え方が、それとリンクしたのである。


彼の話のおおまかな説明としては(私の解釈が半分くらい入っている、あしからず)。

周りの人を見ていると、どうやら「積む」作業をやっているらしい。
積むというのは、つまりこの地位もしくはステップの次はもう一段上のステップへ、次はその上へ、という風に積んでいくということ。もしコンサルなら、アソシエイトからコンサルタント、その次はマネジャー、次はゼネラルマネジャー、という風に。起業していたら、売上いくら、規模いくら、というのを拡張していき、という風に。
誰も彼もそうで、何かの集まりなどに行くと、「積んでいる」ということを前提に、あなたはどの分野で積んでいるのか、という風なことを聞かれるのだが、それに居心地の悪さを感じる、と。
僕にとっては、同時に「掘る」作業というのも必要であると思う。散歩をして何かに気づくとか、麻雀をやって留年するとか、そういう作業が必要だ。意味づけることは自分しかできないわけだし。
勿論、僕にとっての「掘る」作業に位置するものが、誰かにとっては「積む」作業であることもありうる。
君なんかはずっと掘ってるよね。

と、私はまあ大体こんな感じで受け取った。

最初に聞いたとき、掘る、という言葉にピンとこなかったのだけど、ジェンガとリンクして、なにやらピンときた。
人生はもしかすると、ジェンガのようなものかもしれない、と。

最初は積み上げるものがない。
それで、掘り出す。掘っていると積み木が出てくる。
それを積んでいくのだけど、積み木がなくなればまた見つけに掘り出さなくてはならない。
多分これをやっていると、掘る作業と積む作業を同じくらい、もしかすると掘る作業の方を多く、やらなければならない。
でも大人になり、掘る作業をする時間をなかなか工面できなくなってくる。積め積めと、プレッシャーをかけられたりする。他の人の塔の高さと競争したりするようになる。それで、積む方に気を取られるようになる。ジェンガのように、下の積み木を抜いて、積むようになる。掘らなくて済むから、これはとても効率がいい。
しかし、積み木の絶対量は変わらないから、それを続けるのには無理がある。塔だって脆くなる。
人の積み木を真似てなんとか作ってみたりもする。丹精込めてくつった積み木は頑丈で美しいが、簡単に作った積み木は不安定である。
そうして掘ったり積んだりしながら、生き延ばす。
ある人の塔は美しく、ある人の塔はささくれだっているかもしれない。ある人の塔は脆いが高みを目指していて、ある人の塔は低いが堅固かもしれない。人々はその塔を見て、ほめたりけなしたり、自分と比べたりする。
或る時、掘る力も積む力も衰え、塔が傾き、積み木は崩れおちる。地に落ちた積み木は、地面に吸い込まれる。そうして、また誰かが掘り返し、見つける。


そういうイメージがなんとなく、浮かんだのである。人生のある一面を、ジェンガモデルによって想像できるんじゃないかと。

人生といわず、世の中も。人生ならぬ、世界生というか。
なんだか、この世界というのは、時間も含めて、生き物みたいだと思っていて。
私は一個の生命体だけれども、私は細胞という個体の集合であって、一個の細胞の生き死にというものもある。そういう風に、人類もまた一人の生き死にはあるにせよ人類というものは生き続けているのであり、それは地球然り、宇宙然り、というような感じで考えると、世界、時間然り、と思えるのである。
この世界もまた、もしかするとジェンガのようなものなのではないかと。

という妄想。

September 17, 2009

痛みを避けると面白くは無いということ

本当は、刺激があまり好きではないのではないか、と思う。
本来的にはというか、生来持っている性質として、刺激を回避しようとしていると思う。

辛いものは食べられない。
胃が弱いとかそういうのの前に、舌がそれを受け付けない。
苦味とか酸味とか甘味なんていうのは味だけれども、つまり味覚で感じているけれども、辛味は痛覚だからね。味覚じゃないからね。痛がって喜んでるんだからね、君ら。マゾだよマゾ。と、思っている。

同じ理由で、炭酸も苦手である。コーラをぱーっと一気飲みしてしまうような超人的な人はともかく、普通の人でも難なく飲んでいるらしい。スカッと爽やか、らしい。解せん。
あれも、痛いの部類に入る。
炭酸が弱いとありがたい。
で、大学に入って最初の頃なんかは、お酒も初心者で、居酒屋なんかに行くと何のもうかなーとかなるんだけど、大抵炭酸なんだ。サワーは言うに及ばず、居酒屋にあるカクテルは大抵炭酸で(ジントニックだのピーチフィズだの)、まあビールだってそうだしチューハイもそうだし。カシスオレンジとカシスウーロンばっかり飲んでいた。
そんなこんなで、そちらの道が閉ざされてしまったがゆえに、炭酸の無い方へ、炭酸の無い方へと歩いていくと、そこに焼酎とウイスキーがあったというだけの話なのである。別に攻めた結果でなく、守った結果である。

舌もそうだが、その他あらゆる面で、刺激の強いものは避けている気がする。これは持って生まれた性質なので仕方が無い。刺激ばっかり追い求める性質を持って生まれた人もあろう。こればかりは自分では決められぬ。

しかしこれを自覚したのが最近で。というか昨日で。
刺激ほしさに東京生活を送っていたり、友人との対話を楽しんでいたりした、とそれまでは思っていた。
刺激を必要としている、と。
それはそうなのだ、確かに。でも、痛さを伴う刺激は避けてきているのだ。自分が傷つかないラインでコミットしているのだ。のっぴきならないところまではいかないのだ。多分。

勿論いくつかの物事については選択してコミットしている。軸足を置いている。それは責任というような上に立った感じではなく、一蓮托生みたいなものだけど。
私は小さい頃から慎重なので、自分の手に負えるものかどうか、抱えきれるかどうかを多分少なく見積もって手を出している。よく言えばそれは自分の度量を判断して迷惑をかけないようにしている、ということなのだろうが、あんまり面白みは無い。物事が面白くなるのはどれだけコミットしているかというのと比例するのだから。それはもう絶対。

そろそろ積む作業に手を出したく。

memo090916

掘る
積む
苦みばしったコーヒーとアルゼンチンタンゴ

September 13, 2009

草に すわる

わたしの まちがひだつた
わたしのまちがひだつた
こうして 草にすわれば それがわかる

-----------------------------八木重吉「秋の瞳」より 「草に すわる」

こころよ

こころよ
では いつておいで

しかし
また もどつておいでね

やつぱり
ここが いいのだに

こころよ
では 行つておいで

----------------------------------八木重吉「秋の瞳」より 「心よ」

September 9, 2009

ふられる

主に恋心を打ち明けて拒絶されることを、ふられるというが、漢字で書くと「振られる」であるのは異存ないとして、カタカナとひらがなを交えて書く場合「フラれる」と表記する件について疑問を呈したい。

まず、なぜカタカナを交えるのか、という点。
これは別に、フラれるに限った話ではなく、「イケてる」とかそういうのも同じ疑問がある。何その、カタカナ。外来語でもないし。というか、もはや、気恥ずかしいというか、古い感じがする。バブリーな匂いがする。ボディコンとかお立ち台と同じ匂いがする。

百歩譲って、カタカナ表記をしたとしよう。
カタカナの部分が「フラ」なのは何故か。なぜ「フられる」ではなく「フラれる」なのか。
漢字の部分をカタカナにしたというならわかる。でも「ら」までカタカナにする理由が知りたい。送り仮名的に気持ちが悪いのである。
この違和感は、受動態を能動態にした時に、もっとも強く感じる。
「フル」
いやおかしいだろ。FULLかと。

ちなみに、なぜ思いの丈をぶつけて敗れることを「振られる」というかについては、昔女性が好意のあるなしを振袖の袖の振り方で示したという文化に基づいているらしい(左右に振ると「好き」、上下に振ると「嫌い」)。風流ではある。
でも、好きでも嫌いでも、「振られ」ているので、なんだかなと思う。

September 8, 2009

依存とか性差とか

ふと、恋愛について考える。
この前のエントリで、恋人が欲しいということの意味は、優先して一緒にいてくれる人がほしいのだということ、という話があったけれど(そういう場合もあるということ)、それに関連して。

恋愛は依存であろうと思う。一つの重要なファクターとして、「依存」であろうと。何となくそう思う。
依存関係のない相手とは恋愛関係ではないと思う。手をつなごうが、好きだと言い合おうが、結婚しようが、恋愛ではない気がする。

依存というのはどういうことかというと、相手が自分を気にかけること、つまり気持ちの見返りを要求するということ。それがなくてはだめだと思ってしまうこと。

それがなくても平気な場合、恋愛とは言わないのではなかろうか。

そして、恋愛関係に陥るには、互いにその相手に依存する気になるかどうか、というのがあろうと思う。
好きだけど友達、という場合には、この依存する気が起きないということじゃないかしら。


話変わって。

母が、男の人というのは、自分の人生とか信念が最優先で、家族のことを二の次にする人が多いらしい、という話をしていた。男同士の友情を、家族よりも優先させたりする、とか。
で、私はその話を聞いていて、そうよそうよ男ってひどい、とは思わなくて、私もそれはしかねないなと思うわけで。
論調として、男は、女は、という話をする時に、まず性別ありきで語るところというか、どっち側に属しているという意識からスタートする話というのが、しっくりこないところがある。
勿論確実に性差で立ち位置が違う話というのはあるけど(子供を産むとか)、こう、自分の人生と家族との優先度の話とか、大切にするされるの話とか、別に性差関係なくね、という話でも、なぜか性別で分けて話されることというのがあって。
今思えば、院に行くとあまりそういう話はでなかったので、意識が違ったんだろうなと思う。性別関係なく独立した個人、というか。まあ私の周りは。
勿論家庭を運営していく中で、結局は女が家事を負担するのだとかいう結果論はあると思うのだけど。

院時代に、学部の時の友人と結婚の話をしていて、私が「まだ相手を大切にしたり、幸せにする自信がないんだ」という話をしたら、「男みたいだね」と言われたのだけど、別に男みたいじゃないと思う。大切にするとか幸せにするとか、そんなの両者が努める話だと思う。

とかいう疑問。

September 7, 2009

自戒

最近インプットが足りないと、ある友人が書いていた。

それを読んだ時には、そうなのか、としか思わなかったのだけど、私自身インプットがものすごく減っているということに後で思い至った。これは、彼の言っている意味でのインプットとはもしかすると違っているのかもしれない。私と彼のステージは違うのだ。

インプットが足りないことは知ってはいたのだけど、自分のことに引き寄せて考えるということを怠っている、半分意識的に。
ここ最近は、よりストレスフリーな生活を心がけ、思考停止の練習をしていた。思考停止なんて、意識してできるのかしらと思っていたけど、全然できる。人間の頭は、怠惰になろうと思えばどこまでも怠惰になれる。周りが怠惰であれば尚更に、なれると思う。逆に、勤勉になろうとすれば、これもなれると思う。

インプットが無ければ、アウトプットは無い。
同じものを同じように量産していればいいという世界ではもはやない、どの分野でも。
吸収、成長、進化。
反応反射音速光速。

気づけ。反応しろ。先を読め。光の速さで。

私がここで言う、インプットが足りないというのは、情報に触れていないということ。気づきを得ないということ。アンテナを張らないことである。

私に関して言えば、アンテナが敏感になるのは、危機感がある時だと思う。ついていけなくなること、帰れなくなること、寂しいこと、競争に敗れること、見限られること、そういった不安や焦りというネガティブなもの。それが衝動になって私に日経新聞やらダイヤモンドやらを読ませていたし、早く帰宅することを止めていた。

興味があるとか、好きだとか、そういうものもアンテナを敏感にすることはある。
けれど、それは一部のアンテナにしか働かない。
嗜好性選択、と、友人は言っていた。自分の好きなもの、嗜好性に従って集められた情報とかモノ、それに偏ってしまうということ。それが悪いこととは言わないが、彼はそれに不信感を多分持っているし、私もそうである。自分の嗜好性への不信、自分の選択に対する不信。

今の状態というのはそれで、好きなものだけを観て、読んで、暮らしている。それは全然ストレスもないし、しなければならない、などという意識はない。
でもそれでいいと思っているかというと、不安が、ある瞬間に押し寄せるのである。
このままでいいはずはない。いつしか話がわからなくなっているに違いない。自分の中の何かが欠落したままに取り戻せないような事態になるのではなかろうか。ある種の閉じた世界にしか生きられなくなっていないか。他者を排斥する人間になりはしないか。卑屈になってはいないか。何かが起きた時に対応できないのではないか。

ただ、これは私が少し前に陥っていた強迫観念にも似た焦りとニアリーイコールである。

そんなに強くいつも思っているわけではないが、それでも友人の言うところの「ランダム性」みたいなもの、それは私も必要だと思っている。ただ、彼のように、100万儲けたら10万は(一見不合理に)捨てるように使うとか、30日試験前に日があったら10日は(一見不合理に)無為に捨てるように過ごす、というような大胆なことはしたことがない。これを彼は供物にたとえているが、面白い行動だと思う。
私がする不合理な行動は、せいぜい全然情報も無いCDだとか本を買ってみる、というくらいのものだ。まあ、そんなのはよくあることだと思う。何故か買ってしまったものというのは、ある。

基本的には、私は、好きでもないものをあえて読んだり聴いたり観たりすることは無い、と思っている。
それで、私は無理して興味のない本を読んだり、興味のない音楽を聴いたり、興味のない映画を観たりはしない。もしするとすれば、それが「必要」だからするのである。
これが基本のスタンスである。

問題は、「それが必要かどうか」という範囲が、ともすれば広がりすぎるということである。
あれもこれもになるのである。そして、その必要度も過剰に上に設定しすぎるのである。これを、注意しなければならない。
mustなのか、betterなのか、どうでもよいのか。それもその時々で変わってしまうことも頭に置いて。
落ち着いて胸の内を探してみるのである。これを今することにしっくりくるかどうか。私には直感とか運とかそういう類の能力(くじ運とか霊感とか)はほとんど備わっていないと思うのだが、しっくりくる、というのは結構に大事だと思う。何より、根拠が無いっていうところがいい。


その必要であるから読む、と判断して読んだ範囲のものが、いつしか、好きだから読んでいる、に転化していることがある。これはある意味幸福なことだけど、それが本当にそうなのか、ということを吟味した方がいい。自分を騙していることがある。


そんな感じで、そろそろまた思考停止をやめる練習をしてみむとす。
友人に会いたい。

September 6, 2009

クルーン

9月1日。
クルーンが、なぜか「KOHDA」と書かれたユニフォームを着てマウンドに。

「え、何で?何でこうだ?」
「香田コーチのやつ?」
「倖田ファンかな」
「くぅって呼んでほしいとか」

と言いたい放題の我が家。

宿舎に忘れたんだって。

September 2, 2009

脈脈

心電図なう、なんてつぶやいてしまったものだから、訝しげな連絡を何人かから頂きまして。
頻脈なので、ちょっと心電図のデータをとっていたのであった。

頻脈とはいえ甲状腺異常でもなく、心不全とかでもなく、全然大したことはなくて、単に交感神経が活発なのでしょうということで、なんとかベータ?みたいな薬を処方された。

頻脈で困ることというのはそんなにないのだけど(だって単に脈が速いだけなのだ)、ただ、坂道とか階段とかを登るときに、脈が速くなりすぎて疲れやすいというのはある。息が上がりやすいというか。それで炎天下の金城町石畳道付近(急勾配)を登った際に無茶苦茶疲れた姿をお見せしてしまったわけかと、なんだか納得するのだ(運動不足のせいだけではなかったのですよ)。

そういうわけで、まあ疲れるということがあるため、処方してもらったわけである。
飲んだら、脈が遅くなった(多分)。薬ってすごいよなと思う。
ジェネリック(後発薬)と言うけれども、開発や治験からやってる会社の苦労やコストおよび功績を考えると、一概には推進できないよなーとも思うのである。ある程度回収させないと大手製薬のモチベーション下がりまくるから。まあ、その中間をとって今の制度なのだろう。


こんな夢を見た。
テーブルにカスタネットが3つ置いてあって、そのまわりにはおはじきのようなM&Msチョコレートのようなものが、たくさん散らばっていた。それらは青と緑だった。
誰かがカスタネットを赤の面から青の面にひっくり返すと同時に、チョコレートを4つ集める。青が3個に緑が1個。
その誰かの手元は見えるのだけど、私は視線を上げないので誰なのかはさっぱりわからない。私に見せているようだ。
で、またその誰かが次のカスタネットを今度は青の面から赤の面にひっくり返す。私は法則を見出して、次に集めるチョコレートの色を答えなければならない。

メールの着信で目が覚める。頭の上には5冊くらい文庫が積んである。
顔の横に、心電図のデータをとっている小さな機械。
動悸。

まあ、そんな感じだ。
ストレンジ・デイズ読中なのだけど、遅々として進まず。体内にサナダ虫を飼っていないからかしら。

September 1, 2009

派派

今週の、ダーリンコラム(ほぼ日の)で、「派は、いらない」っていう文章があった。

海派、山派?
犬派、猫派?
‥‥みたいなこと、よく言うでしょう。
対立して、それぞれの立場をよく言って、
相手のことを批判しつつ聞いていくと、
おもしろい考えがたくさん仕入れられる。
というようなねらいがあったんでしょうかね。

でも、言うことがだいたい決まり切ってくるんだよね。
よく言いそうなことを、ただ言い合う。
これが、あんまりおもしろくないんだ。
昭和の時代のおやじたちが、呑み屋で、
「おれは信長だ」だの「おまえは家康」だのと、
唾を飛ばして言い合ってたんだけどね。
そういう、ある種の、素朴な「ことば遊び」なんだよな。

てなわけで、派で遊ぶのは、もういいんじゃないの?という感じのコラムだった。

私はつぶあんかこしあんか、と言われれば、断然つぶあんなのだが、つぶあん派に何も属さなくったって、なにもこしあんを目の敵にしなくたって、と言われれば、そりゃあそうだ、と言わざるを得ない。以前に書いた属することっていうエントリにも通じるのだが、属することによって仲間意識でうれしい!ってこともあれば、無理矢理敵意を抱くっていう契機にもなりうるということのささやかな証左。

関西では、関東では、九州では、東北では、こうだ!っていうやつ。ドロケーだ、ケードロだ、マックだ、マクドだ、エスカレーターは右だ、左だ、的なのに似ている。まあ、似てるなって思っただけである。

派閥っていうのは、属するためにわざわざ作るようなものだなと思う。出身大学まで、学閥にしてしまう。仲間意識っていうのは楽しいんだけれど、排除を伴うと寂しい。というか勿体ない。

派ってのは、組織なり構成員の数が大きくなればなるほどできやすいものだろうなと、まあ自民党を見て思ったわけだけれど。いや自民党に派閥ができるのはそれだけではなくって、その歴史の長さと、政権与党であったがゆえの行政との関係もあるとは思うのだけど。


昔は女子の方が派閥を作りやすかった、と思う(今は逆だと思う)。私はその派閥が全然好きではなかったのだが、なんか組み込まれていて、一緒に帰るとか、教室移動は一緒だとか、同じクラブに入るとか、そういうのがあって、別の派閥の子と帰ったりなんかすると、気まずくなったり、激しいと糾弾されたりするのだった。意味がわからん。小学校や中学校で顕著だったけれど、ああいう幼い頃というのは、より動物寄りで、なわばり争い的な本能めいたものがあるのだろうか。だとしてなぜ性差があるのだろうか(あるような気がするのであるという前提を置いている)。

男の子たちは、仲良しグループはあっても、排除し合っていなかった気がする。女の子は排除し合っていた気がする。裏切りとか、言われた気がする。もしかすると、恋愛のときに生ずる独占欲を、恋愛という過程以前のものとして、友人に向けているのではないか。仮説。あくまで仮説。ドラフトのドラフト。

恋愛というものを考えていた時に、結構前だけど、ああ、恋人をつくりたいっていうのは、何をおいても私を優先してくれる人を作りたいってことなのか、という結論を出して、その思考過程をそのまま口に出していたら、一緒にいた友人に、「当たり前じゃん」と言われた。そういうものを、小さい女の子は友人に求めているのかもしれない。女の子は、小さい頃も今もそういう対象を必要としていて、それが恋愛以前は友人に、以後は恋愛の相手に、求めると。男の子は、そうでもないと。仮説。

で、私は今ではこの「当たり前じゃん」と言われた考え方とは違う考え方をしている。いや、「恋人をつくりたい」というときはもしかすると、優先して一緒にいてくれる人がほしい、ということなのかもしれぬ(そういうケースもある)。でも、実際「恋人ができる」ということはまた別で、優先して一緒にいてくれる人だから恋人になるわけではない、勿論。恋人ができるというのは、なんというか、インスピレーションの問題で、そういうことを吟味している場合ではないというか、些細なことというか、同価値性がないというか。つまり「そのひとを好きである」ということと、「一緒にいてくれるか」ということは、言うまでもなく前者のウェイトが無茶苦茶に大きいので、意味無いね、ということ。

に、しても、脱派閥か。どっちDo you like的な話を、派にして遊ぶのは、でもやってしまいそうだなーって思う。

August 31, 2009

5つの言葉

Watch your thoughts;they become words.
Watch your words;they become actions.
Watch your actions;they become habits.
Watch your habits;they become character.
Watch your character;for it becomes your destiny.

思考に気をつけなさい。それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい。それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい。それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい。それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい。それはいつか運命になるから。

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マザーテレサの言葉らしい。twitterのRTで知ってメモ。

からだ


ニュース映像、特に戦禍を伝える映像を音なしで眺めていると、人間とはからだのことなのだと、ひどく当たり前のようで、新鮮な衝撃を与えられる。テレビの ボリュームを上げていれば、ビン・ラディンもブッシュもパウエルも、シャロンもアラファトもニュース解説者も、難しい言葉を並べ、あたかもその言葉が思考 を生んで、生まれた思考で何かが起こっているように思えるが、その音を消してみれば、人間の思考などどこにも見えず、ただ歩き、座り、横たわる人間のから だしか映っていない。ビン・ラディンの痩せたからだが、何か悪さをするとは思えなかったし、健康的なブッシュのからだが、逆に何かを解決できるとも思えな かった。

--------------------吉田修一「パーク・ライフ」より引用

August 30, 2009

衆院選などなど

・衆院選

民主圧勝は皆の予想通りとして。
twitterではこの話で持ちきりといった感。
選挙タグつけてるものをフォローしているサイトを見たりしていると、やっぱり面白いメディアだよなと思う。某掲示板より匿名性が低いだけ、割と穏当な感じで。けれどもスピードは速くて。
テレビでは、速報の合間に当確者へのインタビューというある意味安定的な構成で、選挙番組が流れている。

選挙っていうのは、国民が唯一政治に口を出せる機会、という感じがする。
そもそも政治は国民のものなんだけれども、普段は議員にお任せしているわけで、その議員がやたらと上からな人が多すぎて(そういう人たちがテレビに出すぎていて、かもしれんけど)。
具体的な何か、つまり景気回復とか、年金とか、税金とか、を期待しているかと言われたら、そういうことはない。いや、いい方向に行ってほしいし、そのようにしてほしいし、というかしろと思うけど、そういうマニフェスト的なものが決定打か、と言われると、そうではない。
とにかくフレキシブルに、という感じ。
一生懸命でかつ現実的で、真っ当な感覚とスピード感を持っている人、というか世代というのがいることは知っていて、その人たちが自由に活発に動けるような状況に、なればいいと思う。というか、この結果からしたら、少なくとも今までよりはなっていくだろう。

国民主権でよかった。普通選挙でよかった。と、なんか思う。

因みに、一票の格差の話で、最高裁裁判官の国民審査で一石を投じようと言う話には、乗りました。
大事なことだと、思うんだ。


・障子
を張り替えた。
祖母が以前転んで障子紙を破ってしまい、そのままだったのである。
最近の障子紙は、わざわざ桟に糊をつけて張るのではなくて、アイロンでくっつけるのだ。
恥ずかしながら、障子の張替えを初めてやった。サザエさんとかで見たことはあったのだけど。
張るのがアイロンで出来るので、逆に古い紙をはがすのが厄介だった。父と共に、ぬれ布巾片手に格闘。張った後は少しでこぼこしているのだけど、霧吹きで水を吹き付けてしばらく置くと、ぱりっと張る。これも知らなかった。


・でこぼこ
で思い出したけど、でこぼこしたゴーヤーができている。
ゴーヤーなんて全部でこぼこじゃねえかと。そう思うじゃん。
でこぼこ面以前に本体の形状がでこぼこなのである。何故かはわからない。終盤だからだろうか。


・第三の時効
第三の時効/横山秀夫
読了。
めっちゃ面白い。と、ついったーにもつぶやき、メディアマーカーでもつぶやいた。
いやとにかく、ツボった。
前に動機のエントリでも書いたが、何作も読んでしまうであろう作家。
鮮やか。後味がいい。うまくまとめられている。無駄が無い。単純ではないのに読者が混乱しない。魅力ある人物描写。過度のロマンチシズムがない。
とまあ、いろいろあるけど、とにかく素晴らしい技術だと、思う。

August 27, 2009

強さとは

病院で、自分の番を待ちながら、こう考えた。

智に働けば角が立つ。情に竿差せば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角人の世は住みにくい。

と、芸術の尊さを考えながら、院内をできうる限り客観的に、詩歌の如く、風情をもって見ようとするも、目の前にはピクサーとおぼしきアニメ映画のDVDをポータブルプレイヤーで視聴中のドレッドヘアの黒人の男の子(7歳くらい)、そのお父様とおぼしき筋肉の隆々とした同じく色の黒い男の人が傍らから太い腕で男の子を抱き寄せてはキスをする。
ふむ。
漱石ならばどんな句を詠むであろうか。

そんな光景を見て、院内を詩歌にするのは諦め、病院へ通う自分というものを見てみる。
ぢっと手を見る。
私は望んでここにいるわけではないのだ。勿論。
一人暮らしをしていた頃は、病院へはほとんど行かなかった。病院に行くほどの疾患も見当たらなかったし、風邪くらいだったら市販の薬を飲んで寝ていれば治った。幸いインフルにもかからなかったし、まあ一度急性の胃腸炎で親が上京して病院へ連れて行かれたことはあったけれど、それくらいだ。
体調が良くないのはデフォルトで、女性は大体こんな感じだろうと思っていた(実際、体調が常に悪い女性は多いと思う)。まあ、違う人は違うらしい。

あの頃が強かったとは言わないまでも、随分弱くなってしまったものだ、と思う。病院で何時間も草枕片手にマスクをしてジーンズの脚を組み直す我。これを毎週1,2回やるのである。文庫くらい読了できるさ。

強いとか、弱いとかって、相対的な問題だよなあと思う。
何が強くて何が弱いのか。
働いていた頃、日経を片手に歩き夜遅くまで仕事をする私を強いと言ったのも、同時に疲れ切っていた私の弱っているのを支えてあげたいと言ったのも、同じ人だった気がする。丁重に断る。
他者から強いとか弱いとか、言われるのは全然好きじゃない。というか、しっくりきた試しはない。そうだな、強いな、と思ったことも、弱いな、と思ったこともない。まあ多かれ少なかれ他者からの評価というのはそういうものだ。強い弱いに限らず。男っぽいとか女っぽいとか、まあ好きにしてくれ。

強いは弱いの裏返しか。

強くなればなるほどに、それが折れた時の脆さがあるのか。
専門性を高めるが故に、その分野が衰退した時に展開できないとか。強くあろうと意志が律するほどに、律せられた精神が脆くなるとか。強くあろうとする肉体が、悲鳴をあげるとか。
私は、強い、というとなぜかトヨタを思い出すのだけど、トヨタは強かったし、脆くもあった、気がする。強さというのは突出した何かに頼っていて、諸行無常であるからには、その何かが永遠に頼れるものではないということなのか。
リスクを分配すれば、安定はするが強くはなれないのか。それとも安定が強さなのか。

ある一点、一分野、限られた項目において、強い弱いは存在する。
人として強いか弱いかなど、見当もつかぬ話。持続性すなわち、したたかさ。ポテンシャル。評価軸。

mighty girlという曲がある。一年以上前、シャッフルにしていたプレイヤーから、会社からの帰宅途中で流れていて、曲名を確認して苦笑した。



最近空を見ていない。暑くて外に出られないし、出たとして見上げる気になれない。太陽が圧政を敷いている気がする。
秋が待ち遠しい。

August 26, 2009

秋刀魚

昨夜、秋刀魚を焼いた。

秋が旬の、刀みたいな、魚、といえば、さんまなわけで、刀みたいにぴかぴか光って、持ち上げるとしなる。
沖縄では秋めいているのは空ばかりで、全然暑くて秋という感じもしないのだが、きっと本土の方では秋めいてきているところもあるのだろう、秋刀魚もそういうところで水揚げされて、やって来たに違いなかった。脂がのって美味しかった。

そういえば、いつかも出てきた幼なじみは筑波にいて、学園祭の時におじゃましたことがある。
季節は秋で、少し寒くて、彼は3つくらいのサークルを掛け持ちして、大学生だというのに何故かよく「今日も3徹めだよー」とか言ってる感じの子で(自分で忙しくしてしまうタイプの子だった)、そのうちの1つのサークルで、秋刀魚を焼いて売っていた。確か。
学園祭で秋刀魚を焼いて売るとは、流石筑波!
とか思ったのを覚えている。

秋刀魚といえば、目黒のさんま
目黒に住んでいた時、図書館でカードを作ったら、なぜか秋刀魚のマークで、なんでだ?と思っていた。落語の噺であった。
下魚と言われようとも、美味いものは美味い。
どうやら、目黒のさんま祭り、なるものが9月6日に催されるとのこと。目黒に住んでいた時は知らなかったけど、もう14回目らしく。公式サイトは目がちかちかするので、こちらで。まあこっちも若干ちかちか気味ではあるけれども。寄席もあるらしい。目黒住んでたら行くんだけどな。

と、まあ、秋刀魚あれこれ。

August 23, 2009

動機

動機 (文春文庫)/横山秀夫

これから何作も読むことになるであろう作家。
半落ち、出口のない海、臨場、クライマーズ・ハイ、の作者。
というか、今まで読まなかったのはきっとあまりにドラマ化、映画化されていたから、というのがあるのだろう。私にはそういうところがある。知らない作家の話題作は読まないというか。なんなんだろうなこの心理。
幸いにして、ドラマも映画も観ていないので、普通に読もうと思う。

なかなか好きな作家に出会えることは少ないので、素直にうれしい。
エンタメではあるのだけれど、それもともかく描き出す現場感とでも言おうか、そういうのがかなり好み。
特に新聞記者の話は、というか、別の作品になるが「クライマーズ・ハイ」は本当によい。や、本は読んでいないのだが、とにかく映画はいい。怒号、とか、罵倒、とか、嫉妬、出し抜くこと、その中に守ろうとする信念、とか。男くささ、ロマン、そんな中で生きている女性記者の姿も少なからず描き出されていて。まあ、格好いいわけだ。新聞に対する見方が変わった。

裁判官の話も出てくるのだけど、実際はああではないのじゃあないか、とは思う。高圧的な人はいるかもしれないが、基本的に品のある人々(良かれ悪しかれ)というイメージがある。私とて現場は知らないのだが。

最初の二作「動機」「逆転の夏」が面白い。

August 21, 2009

長崎

長崎へ行ってきた。

実はtwitterでたまに今どことか呟いていたのだけど、ブログの携帯投稿モードを使えるようにしとけばよかったかななんて思う。

記録。

1日目
移動:那覇→福岡→長崎
・なんか駅弁
・二十六聖人
・長崎県美術館-藤城清治展 光の祈り
・トルコライス

2日目
移動:なし(路面電車(長崎電気軌道)活用)
・長崎大学
・マック
・平和公園
・原爆資料館
・大浦天主堂
・豚角煮まん
・新地中華街

3日目
移動:長崎→佐世保(ハウステンボス)
・佐世保バーガー
・ハウステンボス
 -アトラクションのやばさ
 -とらわれない
 -人の少なさ
 -街並みが流石にすごい
 -かんざらし
 -ベリーダンス
 -サックス演奏
 -花火
・ホテルに一笑い

4日目
移動:佐世保→博多→那覇
・特急みどり
・博多ラーメン
・通りもんとか


全体通して面白かったけれど、非常に消耗した旅だった。
まず連れが妹二人っていうことで、結構配慮が必要だったし、移動や時間配分なんかに追われた気がする。一人旅だと回らないであろうところにも回るわけだし(たとえば、私はあんまり食事に頓着しないので、特に名物を食べに行くというのはしないと思う、し、結局カフェで過ごす時間が多くなっていた気がする。)、逆にまあそれがよかったわけだけど。一人じゃ行けないってところもあるしな。中華料理店とか。
東京でも毎日のようにお世話になっていた携帯のジョルダン乗換案内に今回もお世話になった。

長崎の印象は、山がちなところ、だ。
人があったかい、という割には、特にその辺感じなかったし、市内は栄えているので田舎という感じもしない。まあ市内とハウステンボスだけしか行っていないので、田舎にいけば印象はかわるのかもしれないけど。
とにかく、地方都市だった。地方都市だったら宇都宮とか倉敷とかの方が個人的には好きかもしれない。
駅は混み混みなので、喫茶店で休むということができない。人数に対してカフェが少なすぎる。東京みたいにやたらカフェを作ってほしい、まあ、とりあえず駅前には。おそらくは、車移動の人が多いのでそんなに必要ないんだろう。

ハウステンボスと長崎県美術館については印象深いので、別エントリで書くとして、その他について。

実は長崎は初めてではなくて、中学校の修学旅行で訪れたことがあった。これは沖縄の中学校の通例で、大抵福岡から佐賀、長崎、熊本あたりを回って帰路につく。
その時と視点が違ったのは言うまでもなくて、もちろん回ったところや移動手段が違うというのもあるけれど、同じところを回ってもそうだなと感じた、というのは、主に原爆資料館。

ずっと言われ続けていると意味を考えずに反射で答えを出してしまう、感想を抱いてしまうということが、特に幼いころというのはある。

沖縄は地上戦が行われた地で、ものすごく多くの人が亡くなった。戦後の占領も長く続いたから、平和教育にはとても力を入れている。沖縄の総司令部が陥落した6月23日の慰霊の日の前後は、平和追求モード一色になる。特に私が中学の頃というのは、太田知事で、ちょうど米兵による少女暴行事件が起き、基地に対する反抗が盛り上がっていた時期だった。そういうムードというか、沖縄の大半の人がそういう考えだったから、中学生の私もまた、そういう風になっていた。反射で、反戦を思っていた。

でも、人が死ぬというのがどれだけ重いことか、原子爆弾を落とすという行為が、どれだけ罪深い結果をもたらしたかということを、きっとよくわかっていなかった。知識として広島と長崎に落ちた、多くの人が被爆して苦しんでいる、その事実のみを認識しただけだろうと思う。
沖縄戦についても同じことだ。時にはいつまでこのことを言い続けるつもりなのだろうと思った事さえある。単なる被害者意識、かわいそられたがり、そういう風に。

ここ数年で固まりつつあるスタンスというのがある。つまり、大切なのは、基本に置くべきは人、ということ。
ビジネスをやるにしても、人の幸せのためでなければ、そのビジネスには魅力を感じない。雇用関係でも、人を大事にするところでなければ、人は辞めていく。芸術も、学問も、どんな組織も、行動も。
仕事をするにしても、家庭を作るにしても、目の前にいるその人を大事にできるか、何かができるか、そういうのを自分の軸にしていきたいと思っている。

何度も繰り返し、TVがこの大戦の映像を流すのは、つまり人が、あなたの大切に思っている人が、目の前で焼けただれたり、撃たれたり、知らない土地で餓死したりしたということ、それが何百万、何千万という人の上に起こったというその事実を、忘れるな、ということで。苦しみ抜いて、あるいは気づかぬ間に、この世で生きていく時間を奪われたというその事実を。
戦争の理由が何であれ、どれほど正当なものであれ、その事実は忘れるなと。
多分そういうことなんだろうと思う。
戦争なんて、最悪だ。本当に。
大切な家族や友人を奪われるなんて嫌だし、そんなの見知らぬ人だってそうだ。どんな人だって、友人になる可能性を秘めているし、一人しかいない、個性的な、貴重な人だったはず。

攻撃されれば、防御しなければならない。それはそうだろうと思う。
ただ、日本が率先して大量の殺人を犯さないように、人の生を重んじるように、平和教育というものはあると思う。

長崎は、キリシタン弾圧の激しかったところで、殉教者が何人も出た地でもある。
その信仰のゆえに、ただ信じているということのために、殺されなければならなかった人々が多くいたということ。
これも含めて、感じることは多かった。

早稲田にいたので、多くの地方の人と知り合ったけれど、長崎県人は友人にいない。
長崎という土地で育った人と、いつか話してみたいというのはある。