November 28, 2009

俳句に思う

今日、NHKの俳句の番組で、「冬紅葉(ふゆもみじ)」を題に句会をしていた。
それで、冬紅葉という言葉は、あるいは冬紅葉というものは、風情のあるものだなと感心した。
冬になっても散り残った、濃い赤色の葉がぽつりぽつり。豪奢なあの紅葉の鮮やかさではなく、風の吹きぬける青空の下散り残るわびしさ。


句会というものがどういう風に執り行われるのかはよくわからないし、その番組でやっていたようなやり方がスタンダードなのかもよくわからないが。
その番組では、主宰者がいて、その人が事前に「兼題」として上記のようなお題を出して、それを使った句を参加者の各々が詠んでくる。会ではそれを誰の作ということを伏せて、句だけ読みあげ、一人につき2つずついいと思った句を選ぶ。それで多くの人に選ばれた句がやはり高評価を得、例えば4点句、3点句、といった具合に呼ばれる。それぞれが感想を言い合った後に、誰の句だったのか名乗り出る、というもの。
へえ、と、なんだか面白かった。

一番票を集めたのは、

鉄工所跡のあおぞら冬紅葉

というもので、目にくっきりと浮かぶ風景と、少し寂しい感じがいい、みたいな感じで人気があった。
他にも

冬紅葉まだそのままの母の部屋

とか

はさみおり冬もみじ葉や古き本

なんかがよかった。
この回の句はここ

月並みなことを言うけど、本当にセンスのいい俳句というのは、17文字でありありとその風景や気持ちまで喚起させるのだからすごい。作ろうとしてみるといかにできないかがわかる。たった17文字、しかも題があれば残る12文字とかを埋めればよいだけなのに、その何万もの言葉の中のどれを選びどう配置するかというのは。いやはや。

で、芭蕉の句はやはりすごいのだなと。有名な句というのはよく知っているから、改めて感動したりしないけど、実はすごい。旅に病んで夢は枯野をかけ廻る。
和歌もまた。まあしかし究極は俳句だ。

勿論受け手の想像力を多く必要とはするけれど、想像の余地が広いからこそいい。
小さい頃、挿絵のある本が好きではなかった(まあ、今も好きではないな。できれば表紙も絵がない方がいい。)。他の友達が、絵がないからこの本は嫌、というのが不思議だった。大体挿絵とは違った風景や人物や部屋を思い浮かべていたから、それを挿絵に壊されるのががっかりするのだった。そういうのと多分同じだ。
写真はそれを完璧に写し取ってしまうから、その枠の外側や風や温度や匂いに思いを馳せることはできるけど、その枠の中の視覚に関しては動かせないような気がする。

言葉で写し取ろうとすること、でも言葉では取りこぼしてしまうこと、その取りこぼしたであろうものにまで想像を及ぼすこと、というのが、いいなと思う。作者の意図しない解釈がもしかしたら出てくるというのもいい。

多分俳句だから、制限されているから、その言外を読み解こうとするのだと思う。そういう、相手に大胆に任せる芸術というのは、作り手と受け手との間の信頼が感じられるものほどよい。芸術は基本的に自分勝手なものだと少し前まで思っていたが、ここのところ大分印象が変わってきた。

November 26, 2009

問題提起

で、この前問題提起に終始するのってどうなの的なことを書いた。
というか、批判だけするのはどうかと書いた。
でも、基本的に問題提起することというか、気づくことは大事だと思っていて。それをどれだけブレークダウンしていけるか、というところも大事だと言いたかったのだが。これを考えていて、なんで問題提起することがいいことだと思っているのだろうと、思った。

問題を探すことというのは、実はあんまり幸せなことではないかもしれない。まあ何を幸せとするかはあるけど、安らかに穏便に生きることが幸せと仮に措くならば、それとは相容れない。
気づいてしまうこと、疑問に思ってしまうこと、それは順応に抵抗することな気がする。順応というのは生きるために環境に適応するということで、それに疑問を抱くことは精神的に順応に抵抗しているのだと思う。
ランプで生活していた頃に、ランプに問題があると意識した人がどれくらいいたのだろうと思う。ランプ便利だなー、暗くても字が読めるし、いい時代になったよなーくらい思ってたんじゃないかと思う。それが順応するということ。
これに対して、煤の掃除が面倒だとか、いろいろ問題を見つけていた人というのは、このままではよくないのではないかという疑問を持っているから、精神的に充足した気分ではないと思う。でもこれが問題意識を持つということで。
そこから生れ出るものというのは時に、よりよいものである。問題意識を持つことで、その問題をクリアするという目的が生まれ、それを達成することによりその問題をクリアした新たな段階へ進むことができるのである。
これが、私の脳内での、「問題意識を持つこと=いいこと」の構図な気がする。


でも、先の例に見たような商品の話では、これが発明になって先駆者利益で物理的に金銭的に儲かるんだけど、商品ではなくて、ある考え方(制度とか、生きる姿勢とか)に対して問題意識を持ってしまった場合、特に儲かったりしないよなと。逆にその分精神的には順応に抵抗してるわけだから平和じゃないよなと。考え損だなと。
問題を発見すればするほど、安穏とはしていられない。
それがもし自分の内側にこんこんとわき出るような問題意識なら、有無を言わせず自分を突き動かすのだろうけれど、そしてそれは仕方ないのだが、そういう真剣な問題意識であればある程、苦しい。損な気がする。クリアできればいい。けどできないことも沢山ある。


で、そもそも、なぜ考えるのだろうと。気づいて、それに答えを得ようとするのだろうと。

一つには、考えるのが好きだからだなと思う。気づくのが好きで、誰かの気づきを聞くのも好きで、それを自分なりに解答するのが好きなのかもしれない。それぞれの段階での、「ああなるほど」とか「ああそうか」が多分好きなのだろう。つまりは自分にとって新しいものに、感動したいのだろう。

また、一つには、暇なのもある。時間がある。

で、一つには、必要だからというのもある。何かを決めるときに、関所みたいに問題が寝転んでいてその一つずつを道を選択していかねばならず、そのために考えている。
これは、世界と自分の間の折り合いをつける行為だと思っている。
何かの問題が身に迫ったときに、私はこういう姿勢で行く、こういう考え方で行く、ということを理屈をつけて(もしくはろくにつけずに)決めるということ。
たとえば私は人には特に期待しないことにしているけれど、それも、「人は信用できないものではなかろうか。人に期待をするべきか。」という問題があった上で採った方向性で。それはもしかするとある人にとっては考えなくていい問題なのかもしれない。けど、私にとっては考えなければならない問題だったので、それに答えを一応出してそういう風に生きている。
ここでは考えることは処世の手段である。これに答えを暫定でも出していないと、その度悩むことになる。


という、問題提起についての問題提起。を考えてみた。

November 25, 2009

行動化

昨日の会話。

妹 「昨日って、いい兄さんの日だったんだよ」(11月23日)
私 「でも一昨日は、いいにーにーの日だけど」(11月22日。沖縄ではにーにーは「兄ちゃん」という意味)
妹 「はっ、そうなの?じゃあいい爺さんの日にしよう」(11月23日)
私 「easyさん?」(駄洒落)
妹 「なんでもできそうな日!」
私 「君、ヤイコだね」(誕生日が8月15日)
妹 「ヤイコって誰」(ジェネレーションギャップ)
私 「じゃあハイコ」(適当)
妹 「え、シンデレラ?」
私 「・・・おお、冴えてるな(灰子)」
妹 「あの話の教訓って、先手必勝ってこと?」
私 「種をまかなきゃ実はできないってことだな」
妹 「王子待ち。王子って苗字の人いるって聞いたんだけどほんと?」
私 「王子製紙ってあるしな」
妹 「まじで!」
私 「そこらへんのノートとかに書いてない?」

ということで夜中からノート漁りしていたのを母に見咎められ、なんでこんなことに、と思ったらこういう流れだった。

November 23, 2009

ポリシー的な何か

web上でいくつかのサイトやブログを読むが(そんなに多くはないけど)、文章それぞれに味がある。味というか、雰囲気だけど、文章をどういう風に書いているかというので、その人のある一面について知ることができる。まあ、ある一面というのは、そういう文章を書く人、という一面なわけだけれど。

文章を書くときに気をつけていること、というテーマで、近所の人が、スループットのよさ、一意性、短さ、を挙げていた。
最適化だな。プログラムを何行少なくできるかという話も前してたしな。
理系の人は、というのは大雑把すぎるけれど、最短時間で出社するとか、最高得点を出すとか、そういうの好きだよね。まあino見てて思ったんだけど。私もエレベーター乗ったら階ボタンの前に閉ボタン押す派だけど。小学生のころ一番短い距離で行けるようにカーブ曲がりながら登校してたけど。コーナーリング。F1か。


私は何か気をつけているかというと、何も気をつけていない。頭にあることをただただ文字化しているだけである。ごめんなさい。

だからこういうブログになる。接続詞は適切でなく、主語と述語が対応していない。単語が統一されておらず、文章が段階を経ていない。無理やりに結論みたいなものを出す。

あ、でも、この「結論出す」というのは意識してるといえばしている。問題提起ならいくらでもできる。あやふやなレベルで問題提起しても意味ないし、具体的なレベルで問題把握すれば一応の結論は出せる。もしくは解決の筋道は立てられる。
というか、問題提起だけするのってどうなのと思う。子供か。「おなかすいた」とだけ言われても。問題は解決するためにある。批判するだけして、じゃあどうするの、を考えないのってどうかと思う。自戒もこもっている。


で、まあ、とにかく。よく反省する。お客様に出すような代物ではない。おもてなし精神が微塵も感じられない。リッツ・カールトンにしたたかに怒られる。
これじゃわかんないよなという自覚はある。婉曲に、君の文章はたまに難しいよね、と言われたことがあり、まあそういう意味だろう。
しかし私は短くする気はあんまりない。言ってしまえば全部必要なので。多分、削っていったら私の文章ではなくなる。気がする。というか私の文章というのは確立されていたのかい?はじめて知ったよ。
でもわかりやすくしたいなとは思う。思ってる。はい。

知と愛

知と愛とは同一の精神作用である。それで物を知るにはこれを愛せねばならず、物を愛するのはこれを知らねばならぬ。
---------------------西田幾多郎『善の研究』

November 20, 2009

twitter雑感

twitterというのがある。
ついったーである。
右のサイドバーにある怪しげなガジェットはそれ関係である。
何ヶ月か前から使っていて、なんか実名とそうでないのと、2個アカウントを作ってしまい。

余談。
最近思うのだけど、別にこのブログ実名でも構わないよなと思う。実名が出たところでそれ以上の情報って検索しても何も出てこないのだ。寧ろ、このブログの情報量の方が圧倒的に多い。で、ここはグーグル検索にはひっかからないようにしているから、実名を出してもそれでこのブログに来るという人はいないはずで。
しかしgoogleに情報預けすぎだし、まあいいや。

で、ついったーである。
親切なおじさんが、ついったー本を2冊送ってくださった。
1つはコグレ本というやつで、もう1つはtsuda本(@tsudaるの人)である。
コグレ本の半分までざっと読んで、今は置いてある。こう、なんというか、ついったーとは何ぞやという議論とか、これはこういう流れの中でこう位置づけられるとか、そういうことを考えるのはまだ性急な気がして。まあいいのだけど。

ついったーは、錯綜したチャットって感じである。チャットルームという概念がなくて、mixiとかのように人と人とがつながっている。その人の発言はいつも表示されるようになっている。その人の発言が読みたければフォローというものをする。これはマイミク申請のように承諾されなければならないものではなく、自由である。

概要を知るならwikipediaで。


で、ついったーで実際私はあんまりつぶやかないのだけど、というかつぶやく頻度が人によってめちゃくちゃ違うのだけど。あとbotなる機械的につぶやくものもあるのだけど。
実名アカウントでフォローしている人々の中には全然知らない人がたくさんいる。おおまかには、沖縄、院、有名人、に分類されると思う。これらの人々の発言がざーっと表示されるのである。タイムラインという。
このタイムラインは、皆違う。フォローしている人が違うので個々人で違う。みんな全然違う画面を見ている。
それで、コミュニティによってテンションが全然違う。事業仕分けのことをつぶやいてる人がいたと思えばその上に「ドロリッチなう」と来たり、中原中也の詩の一説がbotにつぶやかれたと思えば、ネタが流れてきたりもする。セミナーのお知らせがあったり、オフ参加募ってたり。
何が何やら。

こういうことをつぶやいたら浮くんじゃないかとか、人のタイムラインがわからないからそういうことが全くわからない。あるところでは浮いているし、あるところでは流れに乗って読まれもしないかもしれないし、なじんでいるかもしれない。
というかそういうことを気にしたら発言できない。だから、気が向いたときとか暇なときに超適当につぶやくことにしている。なんというか、実名アカウントは使う気がなかったのだけど、親切なおじさんに発見されてしまい、なし崩し的にフォローされてはし返しという感じで増えている。なんというか、私をフォローするなんていったい何の目的!?と思う。

マーケティングに使う、って人もいれば、人脈構築、って人もいるし、単にmixi感覚で使う人もいれば、情報収集に使う人もいる。多分、使いたいように使うのが正解だろう。そういう意味では、こっちのアカウントの方がのんびりしてて好きだ。
というか、私はある若い時期やっていたチャットから足を洗ったのだ。時間がとられすぎる。同じ匂いがする。

でも情報は速い。院の友人というか手相見の人が、仕分け人になったとか。おもしろい。

これはこれで途上なもの。人が増えると面白そう。

言葉と実体の乖離

また夢の話で恐縮なのだけど、先日夢の中で、「『嘘』という言葉自体は嘘じゃないということ」について考えていた。経緯は知らない。
夢の中で考えるとろくな判断をできないのだけど、このトピックだけ覚えていた。で、起きてからちゃんとした頭で考えたら、あ、ほんとだ、と思った。
「嘘」という言葉自体は嘘ではないなあ、と。「嘘」という言葉自体は本当だなと、つまり、本当に「嘘」だということ。

同じように、「怒る」という言葉は怒ってないし、「悲しみ」という言葉は悲しんでいない。「林檎」という言葉は林檎ではない。あたりまえのことだけど、言葉とそれの指す何かとの乖離というか。


そのことと。


人間には共感という機能がある。連想でもいいかもしれない。
「怒る」という言葉で本当に人が怒っている状態を想起したり、自分が怒っているのと同じような感情を覚えたりすることができたりする。
「林檎」という言葉で、赤く実る林檎の実を想起したり、齧ったときのみずみずしさや欠片の食感や香りを思い出すこともできたりする。


隣の隣のブログ(「朝凪に似た音」)くらいで、「詩のボクシング」という番組の話が出ていた。詩を朗読して、より伝わった方が勝ち進むというものらしく、この優勝者の女の子が話したという文章

言葉というのはとても不思議で、よく物語に思い浮かべた物をかたちにする
魔法がありますが、言葉はすべて、この具現化の呪文だと思います。
色、お菓子、うれしい。
かなしいという言葉を心に浮かべた時、無意識に「かなしい」を
再現している一瞬がある。言葉はそういった気持ちや、いろいろな物の小さな缶詰めみたいなもので
耳や目から受け取ることで、心の中でぱちんとふたを開けるのだと思います。
けれど、疲れている時などにおしゃべりの中で
あ、いま空っぽで出してしまった、とはっとする時があります。
言葉の中に何も入れないまま缶詰めの缶だけ渡してしまった感覚。
それは言葉ではなくてただの音で、「なんとなく」しか入っていない。
わたしはそういう時とても悲しくなってしまって落ち込むのですが、それでも
いつか「風」ということばに風を感じられるような
「やさしい」という言葉に本当にやさしくなれるような
そんなふうに言葉を話せるようになれたらいいなと思っています。



これはつまりは、同じことを言ってるのだなと思った。
私はこの言葉と実体の乖離を、そのままに受け止めていて、彼女はこの言葉と実体の乖離をうめたいと思っているのだという違い。
言葉の可能性を認めつつも自分は探求しない私と、言葉の可能性を信じてそれを探求する彼女。


小説家というものについても、関連して思う。
司馬遼太郎は、昭和について語っていた。番組全部を見たわけではないのだけど(しかもこれは当時に全9回くらいでやっていたらしい)、昭和を語らせれば語るべき本当にいろいろのことを彼は持っていた。自分なりの考えを持っていて、その骨組みを、本質を、自分の言葉で語ることが出来た。その最中に、彼は、「僕は小説家ですから」ということを言った。彼は端的にその本質を語ることが出来るけれども、その表現手段として、小説という形態を自らの方法として選んだのだということだと思う。自らの伝えたいことをより効果的に他者に伝えることが出来る方法として。

私はかねてから、なぜ小説家は小説家になったのだろうと思っていた。それこそよく読んでいる江國香織にしても、村上春樹にしても、遡って芥川や太宰や漱石にしても。
単に独自の世界が書きたいのか、言葉遊びがしたいのか、現実とは違う理想を表したいのか、自分の存在した爪あとを残したいのか、誰かを感動させたいのか。
彼らが小説を方法として使うという選択に、何故かしらと思っていたのである。
自分の考えや感じたことを書きたいのであれば、それを端的に書けばいいのではないかと思っていた。それこそ評論や随筆のように、特にフィクションにしなくても、ストーリー仕立てにしなくても、いいのではないかと。
多分、小説でしかできない伝え方がある。小説にすることによって、その伝えたい命題を具体的事例と結びつけることができる。感情を徐々に移入することで、深く伝えることが出来る。とかいろいろあるんだろうと思う。
なんというか、ある意味奥ゆかしい感じもする。芸術にそれを潜ませるということ。

つまり私は無粋な人間なのだ、残念だ。


要は表現の話なのだと思う。今は言葉にフォーカスして話を進めているが、言葉だけじゃなく、音楽、音、踊り、ジェスチャー、絵、建築、いろいろの表現方法がある。
才能のある人というのは、それらのいずれかを使って効果的に表現をすることができる。
先の言葉の例で言えば、言葉を普段の意思疎通として使う以上の効果をこめて発信するということ。
たとえば江國香織のエッセイ「都の子」なんかを読んでみるとその一語一語がいきいきしている。

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夏になると、だから私はいつも少し勇ましい気持ちになる。今年もまた新しい緑がこんなに溢れているのだから、それに対して心を閉ざすわけにはいかない、と思うのだ。
そういう緑は木ばかりじゃなく、実にそこここに顔を出す。カエルやかまきり、とかげなど、華奢で繊細な小動物の緑や、シャンプーやしゃぼん玉液の透明な緑、気泡の入った、あつぼったいガラスのコップのうす緑。鮎のたで酢のやわらかな緑や、お新香の胡瓜の緑(実際、お新香は夏の愉しみの一つだ。目にしみるほど鮮やかな、胡瓜のきみどり、茄子の紺。ぬかの風味が絶妙のきゃべつ)。それから、野球場の芝生の緑。

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効果的な漢字とカタカナとひらがなの使い分け。バランス。緑であったりみどりであったり。しゃぼん玉。きゃべつ。
私などは先に漢字で書いた単語を後でひらがなで書いたりしてはいけないのではないか、なんてつまらないことを思ったりするのだけど。
この人の文章を好きなのは、その単語を文を丁寧に扱うというのが大きい。丁寧すぎるくらいだ。まあ一方で雑にというか、端的に言葉を扱う文章もその確度さえ気に入れば好きなのだけど。勢いとか、誠実さとか、文章には実にいろいろなものが込められている。


それにしても、言葉にそのものをこめて送り出すということの難しさよ。
彼女の言葉を借りれば、私は空っぽの缶詰ばかりを放っているような気もする。適当なことばっかり言っている。丁寧に生きるという言葉をよく聞くが、多分こういうことなのだと思う。

ただでさえ言葉を使うのに難儀しているというのに。

November 12, 2009

夢見

最近夢を見る。

夢見ない派だったのに、見る派になってしまった。
どんな夢かというと、殆どが、「たどり着けない夢」である。

ある日は、いきなりどこかの駅前にいる。東京らしい。新橋駅前と六本木のアマンドらへんの交差点が混ざったような風景で、私は一生懸命ここがどこの駅なのかを考えている。品川?ちがう、目黒?いや、という風に。頭の中の地図と照合させようとするがうまくいかない。
私は院の同窓会に行きたいようなのだが、どうしてもその会場にたどり着けない。しかし院の友人たちは行く道すがら会う。会うんだけど、私は一緒に行こうとか言わない。とにかく会場にたどり着きたいらしい。そのうち、もう終わってしまったのではないか、という考えに至り、とにかく駅に入って、大学の方に電車で移動しようとする。
そこでもJRに乗りたいのに、JRには行けなくて地下鉄になってしまい、仕方ないので地下鉄で東西線か何かに乗ろうとするのだけど、上に上がろうとするエスカレーターが実は山みたいに頂上があって途中で下りになっており、やっぱりたどり着けない(エスカレーターはよく出てくる)。

ある時はショッピングモールのある階に行きたいのに、階段が一階飛ばしだったりドアを開けたら倉庫だったりしてどうしても行けないとか。
ある時は空港内を迷いまくって、飛行機に乗り遅れて沖縄に戻れないとか。
家に帰ろうとしているのに道がなくて、建物の中を通り抜けたら見たこともない場所に出てるとか。
自分の部屋に帰ろうと思ったら違う部屋だったりとか。

で、起きたら疲弊している。


そっか、検索してみればいいのか、と思ってさっきしてみた。結構おんなじような夢を見てる人多くて。あと、こんなサイトがあるのだね。

夢辞典・夢診断Wikidream

迷う夢は、なんか目標を失っているとか自信がないとか書かれている。進路と、社会とのかかわり系か。
スピリチュアル!胡散臭いぜ。
タロットを彷彿とさせるけど、タロットはやんなきゃいいけど夢は見ちゃうからな、と思う。やっぱり見ない派に戻りたい。

でもカテゴリ検索見てて、あーこんな夢見てなくてよかったなーって思った。こわいわ。
私の場合、たまに西武の涌井が出てきたりラーメンズが出てきたりもするから、概ねいい夢見てると思う。

「未熟」

未熟者について考えた。

私自身よく「未熟者で」とか、使う。「怠惰で」、とかと同じくらいよく使う気がする。
謙遜でなく本当に思っているのだが、あるとき、「未熟、・・・未熟?」みたいになってきて。こう、繰り返してるとよくわからなくなってくるといういつものゲシュタルト崩壊的な。「あ」ってずっと書いてると、こんな字だっけ?ってなるみたいな。いや今回のは単に前後の漢字を単体で見たというだけの話。

「未だ、熟せず」。
これから熟するとは思うんですけど、ちょっとまだなんですよね。
年も若いですし、いろいろ他のことやってきちゃったものだから。
だからね、のびしろはあるんですよ。多分。
で、まあいつ熟するかというのはわかりかねるというか、予定は未定というか。そこまではわからないんですよ。なにぶん、未熟なもので。
的な?

言い訳っぽいなと思ってしまい。のびしろがあること前提なところが若者らしいというか。多分これあんまり年配の人は使えないワードな気がする。
まあ、熟すようがんばります、精進します、という前向きなところは評価してもいいのかもしれない。
でももっと謙虚にいうなら、「未熟で」ではなく、「狭量で」とかになるのかもしれない。のびしろすらありません、私は本当につまらない者です、という。


逆に「未熟者めが!」という叱咤は愛があるんだなと思った。
「ええい器が小さい!」とか、「この凡人め!」とかいうのはもっと辛いのかもしれない。
何にせよ叱咤は愛情であることに違いない、たぶん。

November 9, 2009

昭和

昭和のことでも。

私は昭和に属している、となんだか思っているところがある。
昭和58年の生まれだから、昭和っていっても最後の方ちょこっと生きてただけで、あと平成育ちなわけだが、なんか昭和に属しているという意識めいたものがある。それは生年月日を書く度に意識に刷り込まれるからかもしれない。というかそうだろう。だから、平成生まれの人に、うわ、平成生まれ?まじで?とかいう反応をしがちなのである。こちとら平成育ちなのに。昭和だったの5年くらいなのに。

メディアの影響もあるだろう。昭和といえば、こういう生活様式で、こういうのが流行ってて、とか、平成といえばめっちゃ最近で、BRICs!グローバリゼーション!iPhone!みたいな。ちょっと言い過ぎたけど。でも、たまにTVで流れる「平成」の文字を持つ小渕さんの映像はなんか古くて、ああそうか、平成って21年前からだよねそういえば、ということに思い至る。すぐ忘れるけど。


多分、私は昭和と90年代をごっちゃにしている。90年代=昭和みたいになっている。トレンディドラマやお立ち台みたいなバブリーなものとかサザエさん的生活様式は昭和だと思っている。考えを改めねばならぬ。


音楽に関しては、私は幼少の頃多彩な音楽に触れる機会を与えられておらず、母の聴くクラシック及び当時の歌謡曲か、父の聴くフォーク、グループサウンズ的な何かのみに限定されていた。
クラシックはクラシカルなわけで置いておいて、つまり「伊勢正三」とか「風」とか「南こうせつ」とか「かぐや姫」とか(かぶってるけど)、「サイモン&ガーファンクル」とか、「カーペンターズ」とかを主に聴いていたのである。というか、両親は派手なものをあまり好まず(今思えば。)、ピンクレディーでもキャンディーズでもタイガースでもなく、こういうのを聴いていた。
私は「風」の楽曲がお気に入りで、妹と二人歌詞まで覚えていた。空耳で遊んだりしてもいた。音楽の時間に「あの人の手紙」(悲しい)を口ずさみ担任に「なんで知ってんの」とものすごく食いつかれたことがある。


大抵それを聴くのは父親の車の中だったので、夜の闇と高速道路のオレンジの灯りと淡々と続く道路、車内の機器の緑に光る文字のイメージが、これらの曲とは結びついている。

そして特に父が、結局今もこれらの、というか、あの時代の曲のバリエーションしか聴かないことに驚愕する。飽きないのだろうか。他に琴線に触れる新しい音楽とか無いのだろうか。
今日もまた彼は車内で、「初恋」を聴き、明日もまた聴くのかもしれない。
昭和というのはそういうものなのかもしれない。生粋の昭和っ子か。


この前、NHKアーカイブスで、司馬遼太郎が昭和を語る、というのをやっていたのだけど(80年代の映像だった)、彼のように昭和を最初から最後まで生き切った人が昭和を語るのは本当に聴きごたえがある、と思う。あの映像はよかった。小説家としての自分を語る場面もあった。いつかまた見たい。残念ながらNHKオンデマンド等では配信されていない。
昭和には戦争がある。この大転換の経験なくして昭和は語れまい。
この太平の世に生を受け恵まれた生活を享受しながら、こんなことを言うのは本当に気が引けるのだけど、羨望している。あの価値観の大転換という矛盾を受け入れざるを得なかった人々の強さというか、問題意識には、心から敬服する。
勿論彼らの持ちえない感覚や視点もあるわけだけど、それは措いて。

そんなわけで、私が抱いている昭和への帰属感というものはひとつ大事にした上で、昭和について知らなさすぎることに薄々気づいてはいたがやはり勉強しなければと思う。歴史に学ぶことが未来に役立つからというわけではない。事例に学ぶことが単に好きなのであろう。必要だから勉強するというような殊勝なことは仕事でしかしない。


さて、明日も平成に生きるか。

November 7, 2009

変換

「さいこうほう」と聞いて、頭の中で変換されたのが違ったって話。

サカナクション系

まあどちらにしろ、サカナクションという人々の音楽は、意外に好きかもしれなくて、それってなんかちょっと、と戸惑いを隠せない。
こういうの好きだっけ、というか、志向としてちょっと逆行した感じで。今更感と、いかにも感が。
いかにも感て何だよて感じだが、なんでも「感」つければなんとなくニュアンスで伝わるみたいな環境にいたなー。前のめってる感、とか。一生懸命やってる感、とか。ひどいときは具体例の羅列(「~とか~みたいな」)だけで。抽象化すら投げてて。楽々コミュニケーション。「風」とか「系」とかも同様か。例。がんばってる風。妖精系。


で、どこが好きかというと、こう、昭和な感じというか、フジファブリックの匂いというか、ナンバーガールの匂いというか、そういうのも好きだし、さらにダンサブルで音の使い方に好きなところがあったりとか、あとPVのなぜかvocalしか顔写さない具合とか、あと、声も最初聞いた時アジカンのゴッチ?ていう感じで(だんだん違うけど)いい声である。声はいい。Going under groundの人も声はいい。声はいいんだよ。
それにしてもフジファブリックがなつい。なんだろうこのぐっと掴まえられる感じ。
旋律的にはキンモクセイとか完璧に昭和で結構好き。ついでにレミオロメンも昭和感ある。
でもどれも入れ込みはしない。空気のような。

あれ、前に昭和系の話書いた気がするぞ。デジャ・ヴ。

ネイティブダンサー/サカナクション

靴だけ踊るとこが好き。

追記:
昭和のこと書いた気がするのは、ほんとに気がしただけだった。夢だったっぽいよなーと思ったら、多分夢だった。書いてなかった。
なので、今度昭和について書こう。私なりに昭和。

November 6, 2009

ハム関連で

有限会社があったころなら、

ダルビッシュ(有)

がありえたのに、有限会社は株式会社に会社法によって組み込まれたので、

ダルビッシュ(株)

になってしまった。
的な話がtwitterで出てて面白かった。あれ、でも施行前の設立なら特例有限会社で商号そのままOKなのかしら。

何にせよ、沖縄の雇用対策は急務だ。と思う。正社員で13万は、ないわ。これは人材出てくよ。いろいろだめだよ。昔からだめだだめだと大人たちが言ってるの聞いて、どげんかせんと云々的なことは思ってたけど、今は肌感覚でそう思う。
なんか、人間ってものがおかしくなってきている気がする。いや元々おかしいんだけど、人間性?日本人の重んじているところの。それがどんどん希薄になっていて。想像力とかね。つまりこうしたらこうなるってのを想像できない、一手先を読めない、とか、こうしたらこの人はこう思う、迷惑がかかる、悲しい思いをさせる、とかそういうことを想像しないというか。こういうのって、元々備わってるものではなくてどうしても後天的に身につけるものだと思っていて、そういう機会が少なくなっているのだろうかと思ったりもする。
つれづれなるままに。
とりとめもなく。

最近、学校ってものを考える。学校っていう組織というかシステムというか。壁と卵の話に通底するところありと考える次第。

最近の問題意識的なぼやきでありました。

November 5, 2009

家族と暮らすこと。共有。

家族で住むってことは、我が家の場合だけれども、何でもシェアする、ということなのだなと、体感をもって思った。
昔、NHKで「グーとスー」っていうアニメの1コーナーがあって、グーとスーは兄妹で、その歌の中に、「楽しいことはふたりぶん、悲しいことははんぶん」ってフレーズがあったけれど。

楽しいことは倍々で増える。増幅される。
喜んだり感動したりっていうことは、シェアすることによって(なんか「シェア」って言うと一定数のものをなんとなく割り算してる気がするので、「共有」にする)、ふくらむ。伝播して発展してそれが返ってきてという具合。それはどんなコミュニケーションでもそうで。

苦しいことや悲しいことは分け合える。
聞いてもらうだけですっきりするとか、今はあんまりないけど、小さい頃嘘をついた苦しさや、学校でのいやなことを母親に打ち明けたりすることは、それ自体が何かの解決にならなくても、心の軽くなることだったな、なんて思いだす。
今ではあんまり言わない。というのは、言っても仕方がないって思うからで、言うことによるすっきり感よりも他者に分けてしまった感情だとかを考えて自己嫌悪したり負荷をかけてしまうこととを天秤にかけて、言わなくなっているのだろうと思う。言うことでそんなにすっきりもしなくなったというのもある。
まあそれだけのものを抱え込むだけのキャパシティを年々得たということなのだろう。そういう意味でのスペックは上がっている気がする。まあ少し前にこのキャパを見誤ってしまったわけで、やっぱり未熟者なわけだけど。

それでもある点を超えるとやはり、涙とか感情というのは言葉と共に溢れ出すもので。そういったものを家族と一緒にいると、どうしても共有する。
うちは三姉妹なので、構成として男女比が1:4で。
少し前に、こういう話を見かけた。
女性と男性のコミュニケーションの違い。
女性は「同調」、男性は「要点」なのだと。
女性は、こうこうこうでね、と話す時に、相手に同調を求めている。愚痴だったら、「それはひどいね」とか「つらかったね」とか、そう言った言葉をまず期待する、と。
で、男性の場合には、こうこうこうでね、と話す時に、相手には要点を求めている、らしい。「それはこういうところが問題なんだね」とか「こうしたらよくなるんじゃないか」とか、整理してあげるというか、彼の話の要点をつかんでくれたのか、ということを重視するようだ、と。
なかなか当たっているのではないかと。思う。
まあ、どちらも求めている、というのはあるけれど、比較的こういう傾向はある気がする。
女性は急に解決法を語られても、「同意してくれないの?私の気持ちわかってくれなかったの?」と思い、男性は同調されたところで「いや同調してくれるのはありがたいけどほんとにわかってる?なんかアドバイスくれよ」と、思う、ような気がする。結論重視というか。いやわかんないけどさ。
でも実際、女性と話す時はまず同調っていうのは一つ、あると思う。と、両親を見ていて思う。まあ家族をみていて思う。

で、ネガティブなものを共有する時というのもそれは結構大事だと思うわけで。
私はどちらかというと、「誰かの不幸せに 僕の涙はいらないから」的な考え方をする方だから、頭の中自体は、この同調するというのをすっとばして、その問題を解決するにはどうすればいいかを考えているのだけど。
そして同調しすぎて自分まで感情自体を共有してしまうのはできれば避けたいと思っていて。いいことがないからだ。一緒に悲しみにくれたところで、何も解決しないし状況も変わらない。悲しい気持ちの人が一人増えただけだ。自分のパワーも落ちる。
こう考えるのは、多分、自分が人の感情に同調しきれないからだ。正当化のために頭に置いている考え方だ。ある程度意識的に。そしてそれにコンプレックスを抱きながらも、ある場所では強みになるだろうと思っていた。結構ポジティブだな自分。

それが、ここ最近おかしい。
一緒に苦しくなったり、悲しくなったりすることがある。勿論話を聞いた段階で、ある程度の感情のゆらぎみたいなものはある。けど、それはあくまでそういう感情を念頭に置いた上で考えようという一つのデータ的な位置づけだった。それが持続したり、まして自分まで落ち込むなんてことはありえなかった。

という体験をしているな、という記録。
何にせよ、生きてるうちにいろんな感情を体験するのはお得だと思っているので、よし。そういういろんな体験って、ゲーム感覚で言うと、マテリアとか集めてる感じで。いろんなケースにあたることで、バリエーションも増えるし。それは人との出会いも、やりとりもそうだし、場所も、ものも、それらで得られる感覚や感情や、概念や。いろいろ。
だからそれらを忘れたくなくて、こうやって不完全ながらも文章に残したり、写真に収めたり、健気な努力をして、自分の人生でのいろいろをコレクションしてるのかもなと思う。

野球か

妹 「一眼あそばせ、ってなんかこわくない?眼だよ眼。」
私 「一眼レフってなんだろね。」
妹 「一眼レフト。」
私 「1番レフト?」
妹 「よくわかったねー」

日本シリーズですなあ。
坂本はショートだけどね。

November 2, 2009

犬と猫をどうして見分けられるのか

ダーリンコラムより。<ねこちゃんは、犬じゃない。>

以下引用。

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なぜだ。
なぜに、犬と猫とはまちがわないのだ?
そっくりではないか、犬と猫。
しつこいようだが、
犬と猫を、なぜ、まちがわないのだ?

犬と猫の定義を、人は詳しく知っているわけではない。
どこがちがうか、質問されてうまく答えられるか。
答えられやしないだろう。
しかし、次々に目の前に、犬やら猫やらを出されたら、
「これは犬」「これは猫」と、
断言できるに決まってる。
たぶん、ことばをおぼえたばかりの幼児でも、
「わんわん」と「にゃんにゃん」の区別は、
たぶん確実につくはずだと思う。

なんで?

犬なんて、チワワから、ペキニーズから、
ダックスフントから、ブルドッグから、グレートデンまで、
みんな大きさも姿かたちもばらばらで、
ちがう生きものだと思えば、思えないこともないだろ?
なのに、どうして、
だれでも「チワワ」と「グレートデン」を、
おなじ「犬」だって言えるんだ?

ずいぶん自然に、犬ってものがどういうものか、
ジャッジできちゃうのは、どうしてなんだ?
すごくね?

あんがい、人間って、
このくらいの「すっごいジャッジ」を、
無意識でじゃかすかやってるんじゃないか。
そう思ったんだよ。

あらゆる犬が「犬という集合」であることを、
人間は、どうしてわかるの?
そのつど、そのつど、
どうして、あのいろいろの犬を見て、
「犬だ」って決められるの?
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そうそうそう、わかるそれ、その疑問。って思いませんでしたか、各位。

定義の問題とか言うけれど、定義の問題にするってことは、普段定義ってものをあんまりしてないからともいえるわけで。というか、暗黙のうちに言葉以外のもので定義されているというか、自分の中にいつのまにかジャッジの基準があるというか。

こういうのもこびとさんの範疇にはいるのだろうか。

確かに猫と犬は間違えない。なんでだろう。

前、猫だと思って育ててたら豹だったって話があったけど。
そういうのはまあ、あるんだよな。猫と豹だと子猫時代は間違える、と。

河馬と犀はどうかしら。間違えないか。

カピバラとビーバーは?見たことないしな。

ミーアキャットとブッシュベイビーは?ふむ。

ということは、猫と犬はよく見かけるから、小さい頃から、これは猫だよ、これは犬だよ、と教えられるのと共に、犬と猫のそれぞれの性質をインプットしているというわけなのかもしれない。だから、わかる。
ポメラニアンを見て、犬だよといわれ、チワワを見ても犬だよと言われて、その共通点をどこかしら把握するのだろう。それはそれですごい。
しかし最初に、犬という集合を犬とした人はすごいのかもしれない。いや、もしかしたら猫も最初は犬だったかもしれないけど、だんだん、なんかこれちょっとちがくね、みたいになって、じゃあこういうのは猫って呼ぼう、みたいに分化したのかもしれない。
そんな仮説。

November 1, 2009

いにしへの日

いにしへの日は


いにしへの日はなつかしや

すがの根のながき春日を

野にいでてげんげつませし

ははそはの母もその子も

そこばくの夢をゆめみし

ひとの世の暮るるにはやく

もろともにけふの日はかく

つつましく膝をならべて

あともなき夢のうつつを

うつうつとかたるにあかぬ

春の日をひと日旅ゆき


ゆくりなき汽車のまどべゆ

そこここにもゆるげんげ田

くれなゐのいろをあはれと

眼にむかへことにはいへど

もろともにいざおりたちて

その花をつままくときは

とことはにすぎさりにけり


ははそはのははもそのこも

はるののにあそぶあそびを

ふたたびはせず


---------------------------三好達治「いにしへの日は」より