April 27, 2010

おとこうたとおんなうた考

フツカヨイというかヨッパライの文章ですな、あれは。戒めのために消さぬ(うそ)。

今日は素面。
最近のダーリンコラム(ほぼ日)は、おとこうたとおんなうたについて書いている。
これについて少し考えようかと。
糸井氏曰く、
「ある時期から、男を主人公にした歌がつくりにくくなっていた」
と。

沢田研二の「勝手にしやがれ」にしてもそうで、

以下引用
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さて、この主人公の男は、いったいどういうやつだ?
二枚目の男を描いた浮世絵(イラストレーション)として、
成立することはわかるのだけれど、
この歌を聴いて、
「かっこいいな、おれもまねしよう」と、
思う男はおそらくいないだろう。
すでに、もう、この時代には、
男が歌うための歌詞はつくりにくかったのだ。
「絵になる」「色男」であるジュリーという人の存在が、
この時代の歌を、なんとか
「役者絵」のように成立させていたけれど、
女たちの歌にくらべたら、
圧倒的に語られているものは少なかった。

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以上引用

なるほどねーと思う。
なんというか、そういう風に音楽を聴かない世代になってきたかもしれない、と思う。いや世代というか自分がそうであるというだけだけど。
まず歌自体を特に男女にわけていない。詩もヴォーカルも男女を意識していない。だから、私は女性ヴォーカルしか聴かないのだ、とか、私は男性ヴォーカルの方が好きなのだ、とかいうある種のポリシーというかまあ好みだけどさ、そういうのを聞くと、へえそうなのか、と思う。そうやって分けてるのか、と。
歌詞の有る無しで分ける人もいる。それも、へえそうなのか、と思う。歌が入ってないのは聴く気がしない、とか。逆も然り。

これは別に非難でも何でもなくて、単純に、そうやって分けて聴いてるんだ、という自分とのギャップに驚いているという感じで。

話違いますけど、逆に、私は食事では少しそういうところがあって。
ご飯に何かが混ざっていると、それをご飯だと思えない、というのがある。例えば寿司ご飯だとか、五目ご飯だとか、栗ご飯だとか、そういうものがでてくると、それはご飯+α(おかず)に思えてしまい、他に魚の煮付けなんかが出されると、内心結構戸惑う。これどうやって食べよう、って思う。
おかずは常にご飯と一緒にというか、ご飯で味を緩和して食べるものであって、そのご飯がご飯以外のものとミックスされていると、それは既に完成形なので、他におかずが出てきた場合これと一緒に緩和できるものが無いのだ。まじで途方に暮れる。
まあご飯の方の味を頑張って無視して食べるんだけど、いやな感じだ。多分脳が混乱してるんだろう。
丼物はOK。むしろ好き。これはおかずが余らないし、むしろ一緒にお食べよと提案されてる。

まあ話が逸れたけどそういう話。私がたまにこういう話をする度に、何それって言われるので、多分そこは皆さんと違うのでしょう。そういう分け方?ってなるわけでしょう。


それで、おとこうたとおんなうたの話。
そうなのかもな、と思う。男の人が主人公の歌詞というのは作りにくい、のかもしれない。もしかすると、糸井氏も言うように、男の人というのはあんまりおしゃべりじゃあいけないのかもしれない。背中で語らねばならないのかもしれない。好きだとか、会いたいとか、これが俺の夢だからとか、言うもんじゃないのかもしれない。糸井氏はそこまで言ってないけれど(ある種の方向性を示すことを男性は求められるのではないか、といってる)。
もしかしたら、それは日本ではそうなのかもしれないけれど、例えばスペインとかイタリアなんかでは、熱烈に口説くのが男の人、という価値観があるかもしれない。そしたら、男の人が歌うべき歌は次々に溢れてくる。
なんだろうな、日本の男の人にもあると思うのだ。でもそれは演歌の世界なのかもしれない。

思うのは、歌詞がユニセックスになってきているんじゃないかということ。
たとえばくるりなんかそうで。別に女性が歌ったっていい。まあ、僕という一人称はあるけれど、そうでなければ。男性性を押し出していないというか。
嘘だな。女性は歌えないや。
うーん、むしろ岸田繁しか歌ってはいけない(あの歌にはならない)のかもしれない。
しかしおとこうたと言うほどの男性性はない。もっと等身大で自由なかんじ。少し違うけど、村上春樹の「僕」のような。女性に向けたおとこうたではなくて、世界に向けた「僕」のうた。
糸井さんが言ってるのって、そういう異性に向けた歌の話なのかもしれない。
もはや誰の歌がどうでとかいう知識が無いんだけど、相対性理論とかアジカンとかくるりとかサカナクションとかナンバガとかまあザゼンでもいいけどあとなんだ最近は何が流行ってんの?そういうのってもはや一義的な歌詞ではないよね。とても詩的だよね。と思う。
あーEXILEとか絢香とかいきものがかりとか?はいわゆる一義的なおとこうたおんなうたの世界なのかな。そういうのと一線引かれている感じはする。後者はThe 歌謡曲、というか。後者の世界でのおとこうたというものが、つくりにくいのかもしれない。

そういやmassive AttackのProtectionとか途中こんがらがるよね。


関連。
私は最近歌の力を軽視していたきらいがあるのだけど。人間の声の力。
つい先日レイ・ハラカミのUstがあって、そこに七尾旅人って人が来ていて即興で歌っていて。彼の歌を私は初めて聴いたのだけれど。わぁと思った。歌手ってのはこんなに素敵な声をしているのかいもしや、と思った。多分、トーク後に歌ったからだと思う。
なんというか、今まで他の楽器と同視してたようなところがあって。メインが何になるかの違いだと思っていて。それがアルトサックスであったり、ピアノであったり、なんかの電子音であったり、人間の声だったりする、という。でも、人間の声というのは艶っぽいというか生っぽいというか。自分が人間だからだろうな、人間の声っていうのは非常に感じるものがある。温度がある。今更気づいた。でも気づいてよかった。


まあとにかく、詩とか音楽って素晴らしい。
詩歌にいう短歌っていわゆる「歌」じゃないのに、なんで歌という字なのかしら、と思う。調べればわかるのかもしれないけれど。
そういう詩歌といわゆる「歌」には通じるところがあるのでしょう。
って展開しそうになったけれどそれはまた別の話。

寝ます、そろそろ。

April 20, 2010

法哲学本とかCDとか

この前の土曜に本屋へ行った。その前に友人に手紙をもらった。
受験前の話で、本が読めないなんて発狂するよね的な話が書いてあった。
うん。

しかし最近はそこらに置いてある文庫を読み返すくらいのもので。

で、久々の給料が入ったので、本とかCDでも買うか、と繰り出したのである。

池田晶子の棚へ行ってみた。「私とは何か」「魂とは何か」なんて、いかにも読んでみたくなるようなタイトルで、少し読んでみてやっぱりちゃんとそのテーマで書いているので面白そうだ。私もそういうの考えたいなーとぼんやり思う。
何度もソクラテスが出てくるけれど、専門書にありがちなよくわかんないけどその道では著名な人々の名前が出てくるということはない。法律だったらまあわかるけど(法学界だけ。法曹界は知らない)他のところの権威はわからぬ。そういうものだ。

他の著作も見ていたら、
「哲学はお勉強ではない。自分で考えることです。」
という趣旨のことが書いてあり。
そうだよね、と思い、本を置いたという次第。まずは自分で考えてみる。


で、結局何を買ったのかというと、「法という企て」という本を買うことにした。法哲学の本である。前にも少し書いたけど(タイトル勝ち云々)。
法っていったいぜんたいなんなのかしら!
と高校生のときから思っていて。学んでみても、それは雰囲気でしかつかみきれないもので。民法だの刑法だの判例だの解釈だの何かしらの総体としてそれを法と呼ぶ、ということではなくて、その根本のところ。私達人間とどういう関わりがあるのかとか、どう認識していればいいのかとか、そういうところ。

私は前にも少し書いたかもしれないが、法というのは一つの思想じゃないかしらと思っていて。法治国家という理想国家を実現するための思想。あるいは便法。いろいろな思想の自由を保障するというので、他の思想とはレベルの違う話のようだけれど、でもやはり一つの理想というか思想というか。先進国では一番支持者が多い思想。


で、件の「法という企て」。まだ冒頭しか読んでいないのだが、著者の結論から言うと、法とは、「正義への企て」だそうである。
強盗の要求と法の要求との違いは何か、という問いに対して。背後に強制力を持った要求であるという点は同じで、法というのは最強最大の強盗による要求なのかもしれない、と。
前者が「不正」で後者が「正」であるという言い方もできようかと思うのだけれど、「悪法も法である」という例のそれを真とするならば、悪法が不正であろうともそれは法なのである。つまり国家によって強制される。
では法と強盗を隔てるのは何か。それは「正義への企て」であるかどうかである、というのが著者の見解である。正義を志向してすらいない法は法とは認められない、ということである。

私なんかはその辺を読んでなるほどね、で、正義って?とか思うわけだけれど、言葉にすることは切り捨てることだからな。あるいは固めてしまうこと。
春樹は言っていた、「言葉にすると石になります」と。
学問というのはもしかすると切り捨て、固め、石を積み上げることなのかもしれない。
色と色をいくら分けてもその間には分かちがたい色合いが残る、と言ったのは九鬼周造「いきの構造」。どんなに石にして固めても、とりこぼした何かしらが残る。

言葉にすることの功罪は語りつくした感はあるけれど(つまり功の方を積極的にとるということ。結局、私は言葉が好きだ)。

もう少し読み進めてまた書くかもしれない。

あと「神の子どもたちはみな踊る」村上春樹、も買いました。読みました。とってもおもしろかったです。メディアマーカーでレビュー書いた。

あと、H21年度の重判(重要判例解説)も買いました。

相対性理論+渋谷慶一郎「アワーミュージック」も買ったのだけど、結構あれだ、いいんだけどいいって思ってることを知られるとはずかしい。けどここではあけすけに書いてしまえ。
やくしまるえつこ凄いって思った。で、やはり教授絡んでるのか、って思った。「Blue」好きですね。

サカナクションも買いました。買ってしまいました。サカナのいいところは、山口一郎君がおそらく宮沢賢治を好きだということでしょうか。あるいはサウンドが妙に古くて親しみやすいのと、ところどころ合唱が入るのとか。

最近思うのは、何かを好きだと表明することによってその人のイメージができるっていう話。ついったーとかでね、思う。
格好いいものを好きなことによって自分の格好いい度を上げるという方法について、格好いいものに憧れるということはあんまり格好よくはないのかもしれないなと思う。
格好いい人ってのは敢えて「俺、格好いいこと好きだぜ」ってしてない気がする。
でも別に自分を格好よく見せようとして格好いいものを好きなわけじゃない人もいるから、そういうのに関してはある意味格好いいのかもしれない。
うーん。
つまり何かを好きだと表明することは、それをいいって思うという自身の価値観や立ち位置を表明しているというわけで、それ以上でも以下でもない。確認。

April 15, 2010

雑多に

いまいち書くことが無い。無いなー無いなーって言ってたら一週間ブランクである。
ブログは記録用ということもあるし、熟考用ということもあるので、浮かんだ先から昇華してよいようなものはついったーなのであって。


そういえば映画は検索したが出てこなかった(私信)。

高校の美術の時間に見たモノクロ映画で、断片的にしか思い出せず、けど結構強烈な短編集で。
なんのためにあれを見せられたのかはよくわからなかったけれど、まあそういうものか、と思う。フロムヨーロッパ。

一つは女の子が地下牢のようなところを通って、じゃがいもをかごに入れて家へ持ち帰ろうとするのだけど、途中転んだり大きな猫に追われたりしてじゃがいもがこぼれ落ちた瞬間にじゃがいも自身が自分で転がって箱に戻ってしまうという話。
一つは拷問部屋に寝かされているような映像が延々と流れるやつ(悪趣味)。
一つは部屋に閉じ込められた男の話。ドアを開けても壁になってたりだとか、ドア開けたら急にパンチが飛んでくるとか。テーブルで食事しようとしたら穴あいてたとか。ベッドで寝ようとしたらベッドが急に藁になって埋もれちゃうとか。そういう踏んだり蹴ったりな話。
まあ面白いわけではないんだけど、なんだかひっかかる映画。
知ってる人はいませんか。ヤフー知恵袋とかに書いてみるか。あれ使ったこと無いんだよね。

一応今度本屋で探してみる。


近況としては、まあ普通にやっている。
高校国語教えないといけなくなったので、久々に古文漢文勉強しなおしている。ましかば~まし。な、早めそ早めそ。更ちゃん。めくるめく高校時代の思い出(私にとっての高校時代は常に灰色の校舎と授業と共にある。色恋は無い。モノクロ)。

それにしても現代文の問題に使われてる文章は面白いものもあって、そういうのからちゃんと読めばいいのかと思う次第。全くいけてないのも結構あるけど。んなもん売るなよっていう。

今日やったものは、テレビを「解説機構」と呼んでいて、そういやほぼ日で同じようなこと読んだなと思った。糸井さんが「テレビ見ててわからなかったことないよなあ」っていう話。つまり、テレビはいろんなことを誰にでも分かるように解説してくれる大きな機構なんだねっていう話。

その問題の文章だと、「スター」が「タレント」になった、つまり天空に輝く星から親しみやすい存在になった、と同じような対比で、「評論家」が「解説者」になった、という話をしていて、つまりテレビというのは巨大な「解説機構」でね、という流れだったけれど(そこの対比が同質なのかについてはちょっといまいち感ある)。
この解説云々はほんとそうだな、と思う。その解説が不十分だってわかってしまったりすると見たくなくなるのだけど。
でも私が野球とか相撲とかF1とか観るのは絶対テレビの解説機能のおかげだ。

で、スターからタレントへ、の話。
なんというか、テレビの無い時代を経験していない自分達にとってはピンときにくいけど、往年のスターと呼ばれるような人たちがいなくなっているのはわかる。つまり、石原裕次郎だとか加山雄三だとか高倉健だとか美空ひばりだとか吉永小百合だとか、まあよくわかんないけど所謂「スター」という高嶺の花的存在ではなくなってきていると、思う。
映画じゃなくてテレビがメインになったというのは大きい。テレビというメディアが視聴者と圧倒的な接点を持つようになってから、芸能界というもののイメージ戦略が変化したからなんじゃないかと思う。ある俳優を高嶺の花にしておきたければできないことはないけれど、それに耐えうるスター性が生み出される前に埋もれてしまうというような感じだろうか。まあ邦画の方向性も変わってきているし。

というのも、私は結構、唐沢寿明とか好きなんだけど、母が「いいけどちょっと小粒だな」みたいな話をしていて。辛。まあそうだねとも思って。そういう流れとも脳内でつながった。
でもテレビに出ない俳優も多くいるわけで。映画や舞台とか。そういう別のストリームも結構大きくなってる気はする。個性派というか実力派というか、ああこれじゃあ言葉が薄っぺらいけれど、何、強い輝きみたいなのを持ってる人々。

気づいたら長文。
まあそのうちまたちゃんと書きます。トピック探しておきます。

April 9, 2010

10光年の独り言

「10歳違うということは 10光年離れているということだ」

というのをTumblrで見た。
成程成程、と思ったわけだが(バイト先とか)、でもふと、10歳下の人にそれを感じるのは実感をもって納得がいくけれど、上の人にはそれほどの距離を感じないということを思った。
いや、距離が無いわけではないし、実際同じだけ距離があるのかもしれない。
でも、年上の人には距離を感じない。距離というとあれか、心の隔たりのようなもの。受け入れてもらえないんじゃないかという恐怖があまりないというか。
まあ違う人もいるのかもしれないんだけど。私はそうだ。

多分それは、いつも未来を見ているから。上を見ているからなんじゃないかしらという思いつき。
年上の人のことはずっと見ていて、理解しようとする機会が多いというか。自分の未来を重ねたり、目標にしたり、なんだかんだでずっと見ているんじゃないかと。
逆に年下の人のことはあんまり見ていなくて。はっと気づいたらなんだか違う文化の人々が生まれてた、みたいなところがある。キャッチアップできてない。


そして、近づいていく対象であることと遠ざかる対象であること、というのもあるかもしれない。
年は増えるけど、減らない。時間は進むけど戻らない。
年上の人はこれから近づいていく対象であるけれど、年下は離れていく対象である。


あと、年上の人にはかなわなくて当然だし、ばかにされてもしょうがないけれど、年下にはそれをされるのが怖いのかしら、というのもある。
常に年下の人より上位にいたいと思うから?あんまりそう意識したことは無いんだけど。
でも軽蔑されるのが嫌、というのはあるかもしれない。年上の人に軽蔑されるのは構わないけれど、というかそれは織り込み済みというか。うーん年下にもそれをしないのはなんでだ。

これ、私の中での男の子と女の子の差に似ていて(気を遣うか遣わないかという)。男の子には嫌われても別に構わないけれど女の子にそれをされるのは怖いというような(でもこれも沖縄と本土では違う。沖縄の友達の女の子にはあんまりそういう風に思わない。)。
これらが同じ原理だとすれば、「守る対象」として認識しているものには気を遣い、そうでないものには気を遣わない、ということなのかもしれない。よくわからんけど。

あ、気を遣われると気を遣う原理かもしれない。
それだな多分。それで沖縄の女の子と本土の女の子の違いの説明できるわ。
気を遣うという互いの行為が距離感を増しているということ。それだそれだ。

April 7, 2010

生きている言葉

最近ついったーでは内田樹氏のブログを毎日ツイートしてしまっていて。
まあいいや。ブログでも書こ。


以下引用。
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なぜ、「生け花」と「プラスチックの造花」のあいだに美的価値の違いがあるかということを前に論じたことがある。
もしも、造型的にも、香りも、触感も、まったく同じであったとしたら、「生きた花」と「死んだ花」の本質的な差はどこにあるか。
差は一つしかない。
「生きている花」はこれから死ぬことができるが、「死んだ花」はもう死ぬことができないということだけである。
美的価値とは、畢竟するところ、「死ぬことができる」「滅びることができる」という可能態のうちに棲まっている。
私たちが死ぬのを嫌がるのは、生きることが楽しいからではない。
一度死ぬと、もう死ねないからである。
すべての人間的価値を本質的なところで構成するのは「死」である。
「仮死性」というものがあらゆる人間的価値の中心にある。

昨日書いたように、私たちが定型的なことばを嫌うのは、それが「生きていない」からではない。
それが「死なない」からである。
個人の身体が担保したものだけが「死ぬ」ことができる。
「世論」は死なない。
個人としての誰が死んでも、「世論」は死なない。
それは「プラスチックの造花」と本質的には変わらない。
だから、世論は私たちに深く、響くようには届かない。
深く、骨の中にまで沁み込むように残るのは「死ぬ言葉」だけである。

(中略)

「『思想は富貴の身分から生まれるものではない。』
このような断定は万巻の書を読破し、手に入る限りの史料を渉猟すれば口にすることが許されるという種類のものではない。
このような言葉は発話者がその身体を賭して『債務保証』する以外に維持することのできぬものである。
私は白川先生がどのような前半生を過ごされたのか、略歴によってしか知らない。けれども、それが『富貴』とほど遠いものであったことは知っている。さしあたり『思想は富貴の身分から生まれるものではない』という命題の真正性を担保するのは、一老学究の生身の肉体と、彼が固有名において生きた時間だけである。この命題はそれ自体が一般的に真であるのではなく、白川静が語った場合に限って真なのである。世の中にはそのような種類の命題が存在する。そのことを私は先生から教えて頂いた。」(「白川先生から学んだ二三のことがら」)
その人ではない人間が「同じ言明」を語っても真としては通用しないような言葉は、その人ともに「死ぬ」。

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以上引用。
内田樹の研究室:死ぬ言葉 より

前のhappy go luckyの話とかしてくれてないのだけど。


前半の、造花と生花の違いの話。
やはりそうなのだろうと思う。死ぬことができるかできないか。
造花は枯れてなくなるということがない。古くなったり熱で溶けたりはするかもしれないが、少なくとも数日内にどうしても枯れなくてはならない運命である生花とは違う。
数日内に枯れるとわかっているからこそ愛でるというのも現金な感じはしないでもないのだけど、しかしそういうものなのだから仕方ない。無くなるから愛おしいのである。惜しむのである。

かたちあるもの全ては壊れるというけれど。
その儚さには程度があって。
切り花などはその最たるものであって。
そしてもしかしたら今過ごしているあなたとの時間、とか、今感じている音楽への情熱、とか、そういったかたちなきものの方が儚かったりもして。

先日、歯医者の診察台で30分くらい待たされてる間に、ちらりと眼に入ったのが、魚で。
なんで診察室に魚がいるんだよと思うけど(そして私は何度もその席に座っているのにはじめて気づいたんだけど)。花瓶みたいな小さい水槽にただひらひら泳ぐ魚がいた。たまに雑貨屋なんかでみかけるやつだ。
かわいそうに思った。これからの一生をこんなところで過ごすなんて。つまり、そう遠くない時期に死ぬのだろうに、ここで閉じ込められているなんて。
それは死ぬことを前提にしているから思うのだ。多分。意識があるかないかでも違うのかしら。
まあ、前半部分についてはそうよなあと思いました。良かれ悪しかれ。


で、後半の言明についての部分。
これは厳しい言葉だよなとも思いつつ、でも当然のことだなとも思い。
というかストイックに考えていけば、体験からしか言葉は発し得ない、ということになる。そう考えていた時期もあったし、そう振舞っていた(つまり体験していない、または体験したという確信が持てない事項については態度を保留し言葉を発することを控えていたということ)。
体験していないことについて語るのはただの想像だ。その通り。それを裏付けられない。責任も持てない。保証できない。

でも、だから語るなということはできない、と思う。

私も新聞の定型文にはうんざりする。こういう風にまとめとけばいいや、で書いた文章はぜんぜん面白くない。言葉に本心が入ってないからだ。私達はそういうのが読みたいんじゃない。生きた人間の声が読みたいのだ。新聞社というところの激務の最中に心を込めて文章を書けというのは酷なのかもしれない。でもそれがやりたくて新聞って書いてるんじゃなかったろうか。何か伝えたくて出してるんじゃなかったか。難しいのはわかってるけど。

で、だ。
この若造がなんにもわかってないくせに語るんじゃない、というやつ。そういう叩きとか諭しがあっていいけど、若造が大いに語るのはいい気がする。それは若造なりの表現で。何にもできないなりの言明で。

Web本の通信社:「お前は何様だ!」と怒鳴られた就活生~『勉強会に1万円払うなら、上司と3回飲みなさい 』

これもかなり納得はいくんだけど。というか普通に考えて、そうだろうなと思う。組織の何たるかとか仕組みとか知らずにできることではないし。

こういう内田樹からのびしっとした一言とか、上の「お前は何様だ!」とか、一喝されつつ、腹の底で「今に見てやがれ」と思うってのは、いい。好きだね。
でも言ってみないことには一喝も落ちてこないからな。言ってみていいんじゃないかな。例のKY曲線も相俟って奏功することもあるかもしれぬ。

自分生意気だからな。院というか前の職場でも今のバイト先でも生意気だ。まじお前が言うなって感じだ。けど言っちゃう。仕方ない。
最近、入学当時ローの諸先輩方がいかに寛大であったか(当時21歳)、というのを友人が書いていたけど、私もそう思う。というか多分未だに寛大であり続けているんだろうと思う。そして今後も。私が今の21歳の人々と職場で接してみて、ああこういうことだったんだなと思う(最年長)。若いのとか平成生まれでびびる。いきものがかりとか言ってる。サークルのコールの話とかしてる。まあそれはいいや。


つまり、生きている(死を予定している)って尊いなと思ったということ。