August 30, 2010

本を買うひと

本を買うということがけちけちしてきたなあと思う。特に小説。
文庫出るまで待とう、っていうのが結構ある。
1Q84なんか、1,2はハードカバーで買ってるので、3だけ文庫というわけには到底いかないのだけど(気持ち悪いから)、結局買っていない。ふむ。

こないだ妹らとまたもジュンク堂に行ったのだが、妹は私の影響かどうか、江國香織を最近随分読んでいる。
で、新刊はないのお姉ちゃん、と。
うち大体そろってるからね、と。文庫まで待てばとか(ならんかもしれないのだけど)、これまた不倫ものだしね、そういうのばっかり買ってると本棚そんなのばっかになっちゃうしね、とか。
私の中では結構江國さんの本買うっていうのがプライオリティ低くなってきているのである。
妹のような情熱がない。


私も高校生とか大学生とかの時は、本をそんな風に買っていなかった。東京で最初は目黒に住んだのだけど、目黒の駅ビルがしょぼくて、やっと改装され有隣堂が入った。で、そこで嬉しくていろんな新刊を手にとっては欲しくなり、ハードカバーということも気にせず買った。江國香織のハードカバーは大体この時期に買われた作品である。ほかにも「GO」とか「世界の中心で愛を叫ぶ」(これは読んで、無駄な金使ったなと後悔したのだけど、映画化したら大ヒットしてたので、本と映画は別物よなという感を深めた)とか、所謂ジャケ買いした。

なんでそんなことをしていたのかというと、学部当時の金銭感覚がまだ親の扶養の下にいて、学費も払ってもらっていたので切迫していなかったということ、食べ物より衣服より本のほうがプライオリティ高かったということ(当時の食生活はマックにしろサイゼリアにしろ生協のパンにしろジャンクフードばっかりだった、自炊はは半分もやってたかしら)、本の中でもまだ読みたいと思えるものが今みたいには見つけきれていなかったということが原因としては考えられる。

今は読みたい本がいくらもあるものだから、所謂やりくりをせねばならん。西田幾多郎の「善の研究」なんか脚注付の文庫で1000円超えるのである。おいおい文庫だろ、って思う。まあ著作権存続中か。いやそれほどの価値勿論ありまくりとは思ってるんですけど。

そういやこの前超悩んで買った「法という企て」も積読だしな(そのあとタワレコでやくしまるえつこだのボーヅオブカナダだの渋谷慶一郎だの検討しに行く予定だったのだ)。あれ確か4500円くらい。法律書だから。専門書は往々にして高い。読み物として読むというのにはなかなか。まあいいや。こつこつ読む。

で、塾で現代文教えているので、素材としてはたくさんあって。わざわざ微妙な評論というか新書買わなくてもわりと(ピンキリだけど)秀逸な問題文というのもある。いつも生徒に出すのを事前に読み込んでおくため、読むこと自体に枯渇しているというわけでもなく。

で、本。
本屋さんは好き。でも最近家の近くのブックカフェが気になっている。本を読んでていいカフェ。まあ大体のカフェって本読んでてもいいけど、安心して本読んでていいんだーっていうカフェ。まあ家で読めよなんですけど、家だとだれかが家事し始めると気になるし。そういう意味でほんとにひとりの時間ってなかなかない。深夜はひとりなんだがゆらゆらしてるから読めん。

よーし読むぞーでも明日から連勤だからなー授業も3コマあるなープレ入試の監督もあるなー。そろそろやめるか。

そぞろあるき。

August 26, 2010

興南優勝と会いに行きたい人

一週間くらい書かなかったけど、その間に興南が優勝してた。

もう本土では今は円高の話とかにシフトしているけど、ローカルニュースでは未だに特番が組まれていたりする。

沖縄のフィーバーっぷりはすごいけど、別に引かない。沖縄の人は元々甲子園に熱いのである。強いからっていうのもあるけれど、復帰前に甲子園へ行った首里高が、甲子園の砂を検疫にひっかかって海に捨てさせられたなんていうエピソードとか、そういうのが絡んでいるのだ。夏だし。終戦記念日あたりだし。
ちなみに、その後その首里高の砂の件を知った他府県の方々が、砂がダメなら、ということで小石を送ってきてくれたり、甲子園の砂を混ぜてつくった焼き物を送って来てくれたりしたというあったかいエピソードもある。
あとは沖縄水産の2年連続準優勝という悔しい思い出があるからだろう。私は多分小学生かそこらだったけど、よく覚えている。どこへ行ってもテレビで野球がやっていた夏。

今年の興南は本当に仕上がりが良くて、磐石であった。
その他の高校も素敵な選手が結構いて、最後の東海大相模の一二三君とか、仙台育英の木村なんかも変化球がキレキレで素晴らしかった。しかし熱闘甲子園はいい仕事してるな。甲子園終わったその日にオンエアだからかなり手早くやってるんだろうけど。ちょっときれいすぎるしまとめすぎるけど。

そこの、甲子園とか見てないし、って人は、某tubeで最後のやつ見れるから見なさい。

熱闘甲子園2010エンディング

もはや刷り込みだけど、球児はかっこいい。泣ける。


で、話は変わるけれど、興南ナインを迎えに那覇空港には4500人がつめかけたらしいのだけど(これは並ぶのや混むのが嫌いな沖縄ではよっぽどのことである)、妹が行きたかったーとかいうので、えええとなる。行きたかったの?

「じゃあお姉ちゃんどんなに好きな人が来てもいかないの?」
「たとえば?」
「椎名林檎とか」
「行かない」
「くるり」
「行かんな」
「なんでー」
「行っても別にすることないじゃん。話すこともないし。」
「えーお近づきになりたいじゃん」
「そうか?イメージ壊れるよそれ」

っていう感じで自分はやっぱり有名人好きじゃないなと思いました。新垣結衣とかほんとに可愛いから傍から見るのは好きだけど別に友達になりたいわけではない。ちなみに、宮崎あおいとガッキーどっちが好きかってついったーでアンケートしてたけどガッキーです、断然。

有名じゃない素敵な人が好きです。

あれもラブ、これもラブ。

August 19, 2010

先哲の書

内田樹の「子供はわかってくれない」の文庫を読んでいる。少しずつ。

ブログを読んでから本を読むと分かるのだけど、ブログのクオリティは本並み。ということはブログを遡って読んでも、読み物としては十分に満足ができる(もちろん、学術書ではなく一般に平積みされているやつである)。
私が彼の著作を好きなのは(彼を好きかどうかはわからん)、正直だからである。正直でいてかつ私の気がついていないことをどんどん平易な言葉で突いてくれるからである。読んでてわくわくする。なるほどねーと日に何度も膝を打つ。

そうして、彼の正直な記述によれば、彼の言説はどれについても程度の差こそあれコピーといえなくもないのだとか(彼は彼のブログの文章をコピーも引用もすべてフリーにしている。彼が言っていないことを言った、と言うのはやめてほしいけれど、それ以外ならいいと。)。ほかの誰かが言っていたことを自分の尺度に切ったり圧縮したりして焼き直しているだけなのだ、と。
だとしてもだ。それらの「誰かが言っていたこと」というのはつまりインテリにもほどがあるよというような哲学書だったり社会学者の本だったりするわけである。そういうのを読んで理解して自分の血肉にして、しかも平易な言葉で語り、かつ今の社会に応用させて考えられるならこうだ、という具体まで持っていけるというのは並大抵の勉強量ではないと思うし、並大抵の才能でもないと思う。

で、そういうのをいとも簡単にコピーフリーにして、それでも別に自分の言葉や考えがより多くの人に広がるのであれば、それはいいことだ、と考えているのである。器がでかい。そうだ。器がでかいというのはもう私にとって最大級のほめ言葉と言っていい。男前、とかもうれしいけれど、器でかいなーはかなりうれしい(言う人が素敵な人なら尚更だ)。器がでかくなるためには窮窮としていてはいかん。子供たちに家がばれたくらいで、やばいなーと思ってたんじゃでかい人間にはなれん。

で、内田樹礼賛みたいになったけど、あくまで人間っぽいところもいい。あの人は聖人ではない。ついったーなんか見てるとすごい普通のおじさんである。しかも少しかわいげのあるおじさんである。

で、少しずつ読んでいて、だんだん、もったいないなあという気がしている。
自分がもしかしたらこれからいろんな本を読んで体験する中で得ていくであろう気づきが、この本によって次々に明らかにされていく。自分で気づく体験を奪われる気がしたのである。
数学の問題とかで、自分で解いたときってすごく嬉しいじゃないですか。その嬉しい!っていう体験をせずに、先回りして解答解説を読んでしまっているというような。あーなるほどね、はーそうするのかー。という納得はあるのだけど、できた!っていう喜びはない。まあ程度問題なんだけれども。
ってこれ前に書いたな。ガイドと気づかずに自分で解いたと錯覚することと、ガイドを明確に意識して解くことと、どっちにしろガイドがあるはずで、それは程度の問題なのだと。で、受験のときは時間が限られているので後者を採択することはまあ悪くない、みたいな(結論は忘れた)。
で、人生も時間限られてるんですよね。そしたらこの後者を採択するのはまあ悪くないのかも、しれない。そのために先哲は書を残したのだから。

手っ取り早すぎてなんだかな、と思った次第。
内田氏もまた「アウトサイダー」(コリンウィルソンの)を中学のときに読んでその手の思想家の重要性だかを大体理解でき、請け売りで雑誌部で一目置かれる存在になれたというけれど(早熟である)、私は20歳を過ぎても理解できなかった。大体、中学生の頃なんて、テニス少しやった後は少年ジャンプを読んでたまに塾行って因数分解かなんかしていたような生活だったのである。地域間格差と世代間格差を思い知らされる。あるいは、能力の差を。
そんなわけで、原田和秀氏も薦めていた「アウトサイダー」、リベンジしてみむとす。

August 15, 2010

天使について

天使のことを、この前のラジオで言っていた。
聞き逃したのは私のミスである。

天使のような子、というのは江國香織作品でもよく出てくる。
「育ちゃんは本当に天使みたい」「そうね」
「しま子は天使みたいにいい子なのに」

天使について、私は知らない。天の使いだということしか。
夢なら見たことがある。おばあちゃんの家にいたら、いつも腰掛けて外を見ていた窓から、天使が降りてきたのだ。小さい子供の天使で、可愛らしい子で、綺麗な白い羽を持っていた。言葉は話せなかったのだった。人目で天使とわかった。光り輝いていたから。

私は、そのとき丁度お米を砥ぐことを言いつけられていて、お米を砥ごうとしていた。彼彼女(性別はわからなかった)は、それをそっと手伝ってくれる、私の砥ぎ方。
私は、お米を砥ぐとき水を浸して、砂遊びの棒倒しの要領で周りのお米をサーっと両手で手前へもってきて上方で手の中でもみ洗いする。手をすりあわせるように。洗われたお米は中央に落ちる。後はくり返しである。周りのお米を両手で集めて持ってくる。上方へ持ってもみ洗いしてぱらぱら落とす。循環して全体的にもみ洗いできるようになる。
天使はこのやり方ににこりと笑って頷き、それをわたしの真向かいに来て、手伝ってくれた。私が集めてもみ洗いしている時に天使がこぼれ落ちたお米を拾いながら同じように周りをさーっとなぜるようにしてお米を集めて、もみ洗う。

幼いながらに、ああ、このお米の砥ぎ方はこれでよかったんだなあ。って思った。


天使の記憶はそれだけだ。
ただ、天使をもし見たら、きっとわかるだろうなと思う。

私は、天使みたいな、という言い方をしたことがない。
どのようなものが天使みたいなのかを知らないからだし、天使を知らないのである。

神様はどんなお方だと伝えられるけれども、天使についてはあまり語られない。3大天使というのがいるらしく、それはガブリエルとか、ミカエルとか、ラファエルとか、である。タートルズはここから来ているとかいないとか。
天使はどんな方なのだろう。
天使のようなってどういう意味?

見た目の美しさだろうか。
天使のような可愛い子。
僕の目の前に天使が舞い降りた。
ノースリーブから出た白い腕はまるで舞い降りた天使。

心根?
天使のように優しい子。
天使のように正直な子。

ここでいう天使はきっと女の子や子どもなのだろう。天使のようなおじさん、は聞いたことが無い(勿論いると思う)。


人間の天使性というのは、人間の悪魔性と対になるものなのだろうか。

天使っていうのは、読んだとおり「天の使い」である。
だから、神様が人間をつかわした場合でも(その人間が意識的にしろ無意識的にしろ)、その人はその時あなたの天使だったんだね、なんてことを言ったりする。うちだけかもしれないけど。
母曰く、最近私の天使だったのは、さささ君だそうである。さささ君というのは院の同期で、そこそこ仲はよかったが少し喧嘩ごしのこともあって、一個上だからと敬語を使わないことにこだわっていた律儀な感じの男の子であった。さささ君は挙動がさささとしているのでさささ君なのである。意外と音楽の好みは合った。Sigur Rosを教えてくれたのは彼である。
彼はなんだかんだと心配性というかよく世話を焼いてくれたので、善良なさささ君は司法試験の受験の出願の際やる気が無くてまだ出していなかった私をなかなか強引に郵便局まで連れて行き、「絶対ちゃんと出した方がいいよ」「書留はこうやるんだよ」と懇切丁寧に教えてくれた。やる気が無い私はつい「えー」とか「いいよ今度やるよ」など言ってしまったのだけど、悪いことをした。
三年次に憲法のレポートを出さなきゃ単位が危なくて卒業も危うくなるみたいな状況のとき(私は体調を崩していて沖縄に帰っており、授業に全く出ていなかった)、メールで送ったレポートに表紙をつけて出しておいてくれたのもさささ君であった。
その様子を見ていて母が、天使だと言ったのである。
うむ、そうだったかもしれん。ことあるごとに助けてくれた。しかもそこに一切の恋愛感情や打算なども無く。いいひとだった。感謝している。

誰かの天使になれたらいいなと思う。偶然でも、なんでも。

August 13, 2010

耳の解像度

ついったーでもつぶやいたのだけど
エレクトロニカの世界~渋谷慶一郎の電子音楽マトリックス~
という番組が3夜連続でやっている。ラジオで。NHK FM。ニシカワさんのついーとで知ったのだけど。
今日2夜目から半分くらい聴いたが、ラジオを聴く習慣が無いためしょぼいラジオしかなくて、左からしか聴こえない(そして接触不良気味)という劣悪な環境で聴いたので、勿体無い感じであった。加えて、リビングにいたため、人がラジオ聴いてるのにお構いなく話しかけてくる家族。おかげでグリッチのとことか聞き逃している。

で、そのなかで、音の解像度が上がっているという話が出て。
マイクロスコピック、という言葉があって、それは顕微鏡的な、という意味なのだけど、技術が発達してくると音の扱いがミクロになってくると。拡大して作りこめると。そうすると音の解像度が上がる。で、それを聴く方も耳の解像度が上がると。
それはもうほとんど常識のように口にされたわけだけれど(常識なのかも知れんけど)。

耳の解像度って。
つまり耳が肥えるということよね。舌が肥えるみたいに(舌の解像度も上がるわけだ)。
まあ像といってしまうと視覚っぽいのだけど。でもしっくりくる。
この前、変化すること、みたいなエントリで、人間の方も変化してるから音の聞こえ方が変わってくるのかも的なことを書いたけれど、まさにそれで、というかそれ常識、みたいな感じで。
より微細な音の違いを聞き分けられるようになる。すごい小さい音の差分みたいなものとか、よりかすかな振動とか。妙な音とか。
そうやって新しい音、新しい音ってやってるうちに、自然界では聴こえない音を人間は作り出すようになったんだなあと。
ノイズを聴くのって最初の頃全然不快で。少しのノイズも不快というか、いらんと思っていて。だから、Telefon tel aviv聴いてたときも、ノイズ無ければいいのにって思っていた。私はやさしい電子音が好きなのであって、ノイズが好きなわけではなかった。つまり、レイ・ハラカミみたいな音が好きだったってこと。
で、だんだんノイズが心地よくなっているのに気づく(今もそればっかりは苦手だけど)。というか、ドラムとかってその一種というか。パーカッションというか。

で、ヤマダ電機に行った際、自分のiPodを接続して聴いていいという試聴用のイヤホンがいくつかあったので試したところ、全然違う。同じ曲かと思うくらい違う。あるものは解像度が高いけれど、ちょっと明るすぎる。軽すぎるというか。で、あるものは低音が割にしっかりしていてバランスがいい。とか。ちなみに私のイヤホンは安い。ヘッドホンも一応ヘッドホンだけど1万いかない。院の同期は4,5万するやつをノイズキャンセリング機能が秀逸だからといって自習室で装着していた(その時は音楽を聴いていない)。超贅沢。
イヤホンでこれだけ違うんだから、もはや同じ曲聴いてるとは信じがたい。特に音楽にうるさい人ほど。

で、やくしまるえつこの、ウィスパーな声(エフェクトで息の音を強調しているとか)、あれもノイズか、と得心。ノイズが心地いい理由が少しわかる。生体音というか。あーあと具体音とも言っていた。
奥深いぜ。

人間ってそういう意味でもどんどん進化しているというか、どんな小さいことも味わえるようになっているというか。少しの音、色彩の違い、味の違い、手ざわり、舌ざわり。
愛すべきこの世界。

と思っためも。

August 12, 2010

すぽると

つれづれなるままに。

越智が最近はクローザー的なことをするようになったのだけど(クルーンが負傷で登録抹消のため。今日1軍復帰したらしい)。昨日は9回裏に同点のソロアーチ(ヤクルト・青木)を浴びる。

私「越智くん!」
妹「おちけん?」
私「!」
妹「つくるなよ」


まあ青木も早稲田だしね(鳥谷のときも同じことを言う)。

続く10回表、バッターボックスに越智。珍しい光景(中継ぎなので大体1,2回で交代するためいつもは代打が出る)。ピッチャーだからって体力温存とか考えずに、積極的に打っていく越智はよかった。越智かわいい。かわいいねーって母と。
ファールでねばったけどファーストゴロに倒れ、10回裏なぜか最初から山口に代わっているという。え、越智続投じゃないのに打たせたの原さん。まあバッティング好きそうだけどさ。


昨日はヤマダ電機に行ったら(沖縄にもある)、本屋さんがあってびっくりした。確かに大井町のLABIにもあったわ本屋。

びっくりしたついでにF1速報ハンガリーGP号立ち読みしてしまった。やっぱり面白い。あんな薄いのに550円もする。でも広告費ほとんど入ってないだろうから仕方ないよね。海外飛び回るしセレブ業界だから取材費もかかるだろうし。と納得しながら立ち読みする。アロンソの勝った号なら買ってた。F1速報の何がいいって、あんまりミーハーじゃないというか、スポーツ新聞的じゃない(ゴシップ好きじゃない)っていうところがいい。インタビュー記事とか諸々、F1への愛を感じる。

ミハエルが危険な幅寄せをしてバリチェロ激怒みたいな記事があって、まあやるよねあの人そういうこと、って感じだ。以前、弟のラルフにさえそういうことしたからな。勝利への執念がとにかく凄い。次のレースは10グリッド降格が決まっている。で、アロンソはそういうことはしないのだ。フェアネス。アロンソかっこいい。かっこいいアロンソ。ちゃんと計算してタイヤをかばって走ったりとか。レッドブルより1.2秒くらい遅いマシンで2位を取りに行ったりとか(1チーム2台なので)。買えばよかったかなやっぱり。


甲子園も始まって、沖縄は興南旋風ふたたび、と盛り上がる。沖縄は高校野球熱がすごい。見ないと非国民ならぬ非県民扱いである。見所は、興南高校の春夏連覇なるか、というところ(春は優勝したのです)。守備も攻撃もいい仕上がりだと思う。一回戦も安定した強さで9-0で勝ち進んだ(ほんとは見たかったけど、3回までに3-0だったので、まあ大丈夫だろうと那覇へ出た。いつも混んでいるジュンク堂はがらんとしていた)。いい仕上がりすぎて、初々しさに欠けるくらいである。


なんかスポーツばっかり。しかも自分はしてない。
いかんいかん。

余談だけど、沖縄は日テレが無いので江川の番組観れないのは結構残念。

August 9, 2010

これでいいのだ

公共広告機構(AC)のCMが最近増えていて、どうしたわけかしら、と思う今日この頃。
テレビの広告費が下がったのか、公共広告機構が頑張っているのか、参加企業が増えたのか、制作費か何かボランティア的な何かが起こっているのか、は知らない。

印象的なCMがいくつもあるなあと思うのだけれど。
子供が黒い絵描いてるやつとか、ぱなしのやつとか、コトバダイブのやつとか。

使い古された言葉っていうのがあって、私は多分特にそうなのだけど、そういうものをスルーしてしまう。どんなに大事なことでも。漠然とした言葉というのは、具体的に何々をしなさいとか何々はどこでどうなっているとかいう言葉より、届きにくい。
で、そういうのって言葉として損だなあというか、大事なことを言っているのに届かないのってもどかしいなあと思っていた。
友達を大切に、とか、あらゆることに感謝しなさい、とか、そういうことってもう何度も耳タコで聞いていて、今更新しいことも何もありやしない。だから、そんな言葉を使うより、もっとピリッとした新しい言葉を、聞いた人の耳に引っかかる言葉を、使ったほうがいいなと思っていた。塾の先生をやっていて思うこともそうで、子どもたちっていうのはそういった類の言葉をいやというほど聞かされているのである。


それで、まあACの話に戻るけれど。

「これで、いいのだ」

っていうのがあるじゃないですか。赤塚先生の。バカボンのパパの。
女子高生が何か悩み事なのか、ぼんやりしていて、そしたら「その言葉をつぶやいてごらん」っていうナレーションが入る、やつ。
あれ私好きなんです。雰囲気も、映像も、音楽も含めて。なんか、きれいごとっぽくなくて。(きれいごとを否定するのも好きじゃないんだけど、きれいごとすぎるというのもやっぱりあって。)

それで、単純に、あ、いいCMだな、って思っていた。

でも、言葉は私に完全には届いていなかった。なんだろうな、言葉にも自分の心のコアの部分に刺さるようなのもあれば、脳にやっとさわるようなのもあるし、届いている場所も距離も違うというイメージがある。
それで、この言葉は、脳に届いていたけれど、心には届いていなかった。そうだね、あなたはあなたのままでいいのだ、と思っていた。その誰にともなく、もしくはその女子高生に向かって。

で、さっき、急に、この言葉を思い出したのだった。
幼ない頃から歌に乗って口ずさんだフレーズ。西からのぼったお日様が、とか、ウナギいぬとか、よくわからないながらに楽しくて、「これで、いいのだー♪これで、いいのだー♪ボンボンバカボンバカボンボン♪」って。これを歌うと元気になった。

それで、
ずっと昔から聞きなれていて、今になってその大事さに気づいて、それでもまだコアまで届かなくて、今やっと届いてぎゅっとなった、
と思った。

すごく大事なことを、なんでもないことのように多くの子供に口ずさませておいて、その子達は大事なことなんて知らずに何年も何年も忘れていて、大人になったときに、こんな風に気づくようにするなんて、なんて人!

で、この言葉が何より必要なのは、私だった。あの女子高生は、私だった(比喩とはいえすみません)。
今更気づいたんだ。



※参考(某tube)
「これでいいのだ」
「黒い絵」
「ぱなしのうた」
「コトバダイブ」

August 7, 2010

変化について

この前の現代文で、庭の話があった。

西洋の庭は、噴水を作ったり、木々を丸い形にカットしたり、そういう造形美を目的としている。そういう意味で西洋の庭は彫刻のようなものであり、そこで完成するものである。加えて、自然に対する姿勢として、人間が自然を支配し加工するというスタンスである。
しかしながら、日本の庭は自然を生かすようにつくられている。縁側から庭がつながっていて、いつでも生活空間の中から行き来できる、くつろぎを重視した庭である。そして、その庭は木々が成長するのに伴ってその形を変えていく。その庭をつくった者はそれを予想しているのであり、その意味で不変の完成形を残そうという意志はない。自然に対する姿勢としては、支配するのではなく、調和するスタンスである。

的な話。

その後に、そもそも日本の文化というのは何かを残そうとするようなものではない、と続く。
例えば「生花」は花がそもそもすぐに枯れてしまう以上、残せるものではない。それでいて尚、その花との出会いを大切にし、美しく配置するというもので。
「茶の湯」も主と客のその一度の席で心を込めて茶を点て、それをいただく、その場を愉しむのであって何かを残そうというものではない。
そして芭蕉が俳句より好んだという「連句」もまた、そのようなもので。連句というのは、誰かの詠んだ上の句(5・7・5)に下の句(7・7)を別の人がつけ連ねて楽しむというもので、誰が詠んだとかその句を残そうと一生懸命につくるというのではなく、その場での友人達との戯れを愉しむというものである。

という感じ。

そこで、龍安寺の石庭の話が出てくる。
石と砂だけのシンプルな庭である(厳密には苔くらい生えている)。これは日本の庭の中でも例外であるとする。植物が植わっていないのである。つまりほぼ変化しない。これは他の日本庭園と異なり、くつろげる空間というよりは非常に張り詰めた緊張感のある空間である。そして志賀直哉の褒めて言うように。
「相阿弥が石だけの庭を残して置いて呉れたことは後世の者には幸いだった。木の多い庭ではそれがどれだけ元の儘であるか後世ではわからない。例えば本法寺の光悦の庭の中でも中の『八つ橋』を信じられるだけで、他は信じられない。そういう意味で龍安寺の庭ほど原形を失わない庭は他にないだろう。此庭では吾々は当時のままでそれを感ずることが出来る」


で、「飽きる」ということを考えた。
飽きるだろうなと思ったということ。所謂西洋の庭(つまりいつも刈り込まれていつも同じ形をしている庭)はきっと見ていてうんざりするに違いない。無論、西洋にも日本より野趣溢れる庭もたくさんある。
で、そういう定型的なものに飽きるというのはもしかして健全だなと思ったということ。
以前に内田樹氏のブログで、「人は定型から出ることは出来ない。しかし定型を嫌うことはできる」という言葉があったけれど(マスコミの論調についての文脈であった)。
それで、変わるということが(もしかすると微妙な変化であればあるほど)美しいしわくわくさせるし感動させるのだなと。
そうして、自然が変化しないように見えて実は変化していることって実は驚異的なことなのではないかと。思ったわけで。

空とかさ、雲はすごくゆっくり動いている。早くてもたかがしれているというか。なのに、気がつくと急に暗くなって雨が降ったりとか、いつのまにか薄紅に染まっていたりだとかする。雲の形も刻々と変わっているし、天上の星も実はゆっくり動いている。月がいつのまにか高く上っている。
植物も全然動いていないように見えて、実は一日でかなり成長していたりする。実がなるものに顕著だが、一日でぐんと実が大きくなっていて驚くのはよくある(よくあるのに驚くのだから私も学習しない)。

全然飽きないなあと思って。

で、音楽とかって好きなの聴きすぎて飽きるということがたまに起こるのだけど、少し経ってから聴くとまたすごく面白く聴こえたりする。違って聴こえたりする。そういうのって、もしや音楽変化してたりして。っていう思いつき。だって日々人間も変化してるわけだから、聴こえ方が変わってく事だってあり得ると思う。読書然り。


なぜ、変わらないと飽きるのだろう。
クリエイティビティと関係するのかしら。変わらないということは、進化しないということだ。変わるということは、何かしら前進なり後退なり横移動なりしていることになる。そうやって変えようとする力が、いろいろな物事を動かしている。そういうことと、この世界の源泉のようなものとはつながっているような気がする。いや思いつきだけど。
そういう動力がなければ、世界自体が動かないというか。変化するということ。単なる循環でなく(超マクロな視点で見たら循環なのかもしれないけど)。そういうこの世界の細部まで動いて変化していることが、時間が流れているということと同義で、エネルギーの移動とも同義で、ていうような。
変化って時間軸が絶対必要よな、って今思ったんだけど、逆も言えるだろうか。時間を定義するには変化が必要だっていう(何一つ変化しない場合に時間が流れているといえるのかということ)。
変化するのはなぜかって、まあ、そういうものなのだと言われればそれまでなのだけれど。
プログラム説。
ああ謎。

変わらない方がいいものもあると、思っていた。
愛情とか。ときめきとか。わくわくとか。
でも、愛情はともかく、ときめきやわくわくというのはギャップが前提のようなものだから、難しいなと思う。

諸行無常。

なんか、自分が何らかの動力で動いていることは確かで、そして物を食べないと動けなくなることからその動力が食べ物からえられているであろうこともわかって、それってなんだか超不思議だなと思う、今更。
私、ほぼ食べ物じゃん。
私自身も変化の結果なのである。体内変換。
そしてこうして書いている内容もまた、何かを取り入れて変換して出したものなのである。

August 5, 2010

死について

ねむねむですよ。

あれだ、死。
家族と話していて、ああこの人たちと過ごしてて幸せだなあと感じ。いつまでもこんな風にいられたらいいのになあと思う。妹達は勿論旅立つのだろうから、私はいつまでもここにいて老いる両親と色んな話をしていけたらなあと思う。
で、この人たちもいずれは死ぬのよなあ、遠いところへ行ってしまうのよなあ、と思って。
で、私もいずれ死ぬのよなあ、と。
死ぬとか今全然思ってないけど、終わるからね。絶対。遅かれ早かれ。
死ぬと周りの人が悲しむのは、どうしてだろうと。その人にもう会えないからだろうか。死に方が苦しそうだったからか。死ということがもう生の終わりだからだろうか。終わってしまったからなのだろうか。それで、かわいそうだと思って泣くのだろうか。

わたしも寝床で考えている時に、ふと自分が死ぬ瞬間を想像してしまったりする。大体の場面は、私は苦痛を伴いながら死ぬ。腹を刺されるとか、毒を盛られるとか、爆発に巻き込まれるとか。で、死ぬ間際に意識が無いことを切に願うのである。痛みにたえきれないはずだから。
暗闇でそんなことを考えると本当に怖くなる。やってみるといい。

それは、死が怖いからであって、なぜ怖いのかというと、生より悪いことだからである。生を奪うものだからである。生を一番いい状態で、その次はもう無い、むしろ悪い状態だという考えかあるからである。
もし、生の次の方がよかったら?天国という言葉を使わないにしろ。次のステージがあったら?勿論、そう考えている人もいるだろう。クリスチャンにしろブッディストにしろ、そういう考えがあるのではなかったっけ。

得体の知れないものに対峙するのは、楽観である。
死の先に我々の自覚とでも呼ぼうか、そういったものは存在しうるのだろうか。あったとしてそれは幸福な世界だろうか。地上での罪の制裁はあるのだろうか。輪廻の中に取り込まれてしまっているのだろうか。次は蟻だろうか。名も無い草だろうか。
と、そういうことを今から考えていてもそれを知る術は証明力の無い読み物や啓示以外には無いわけだから、どうでもいいじゃん。わかんないこと考えても時間の無駄だよ。的な楽観主義が結局全てを覆うのである。自分が死んだ後のことについてはね(勿論、遺族にとっては死んだ後にどこへ行ったのだろうという疑問はシリアスなものであろう)。

一方で死ぬ前のことについても人間が楽観的かというと、そうでもないのである。実に細かいことまで心配し、それを解消するために手を尽くしたりする。生をコントロールしようとし、生へ執着する。生命としての義務なのかもしれぬ。

生きているというのはそういうことで、生きているものとしては生きることに対してベストを尽くすというようにプログラムされているということなのだろう。
死んだ後に極楽浄土があると思っていても、死ぬ前に恐怖を感じずにおられる人はなかなかいないと思う。この死のうとすることに恐怖を感じるようになっている自殺阻害機能とでもいおうか、そういうのが備わっているよなあと。

祖母が結構高齢で、今施設に入っているのだが、少し具合が悪くなって、気弱になると、「もうすぐ死ぬのかねえ」なんていう。彼女は死をとても怖がっている。年季の入ったクリスチャンであるけれども、死が怖い。

読中の「虞美人草」の最初の方に、こんなのがあった。

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古今来を空しゅうして、東西位を尽くしたる世界のほかなる世界に片足を踏み込んでこそ――それでなければ化石になりたい。赤も吸い、青も吸い、黄も紫も吸い尽くして、元の五彩に還す事を知らぬ真黒な化石になりたい。それでなければ死んで見たい。死は万事の終である。また万事の始めである。時を積んで日となすとも、日を積んで月となすとも、月を積んで年となすとも、詮ずるにすべてを積んで墓となすに過ぎぬ。墓の此方側なるすべてのいさくさは、肉一重の垣に隔てられた因果に、枯れ果てたる骸骨にいらぬ情けの油を注して、要なき屍に長夜の踊をおどらしむる滑稽である。遐(はるか)なる心を持てるものは、遐なる国をこそ慕え。

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ため息が出る。
神経衰弱にもなるわ。

生と死のテーマは重い。
私は家族が死んだ時どうなるんだろう。号泣するとは思う。私はもうその姿で動いている生命体としての彼彼女を見ることが話すことが触ることができないということにきっと耐えられない。鈍感だし、忘れっぽいから、もしかするとだんだん平気になるかもしれない。その頃になってやっと、愛する者の行った先に思いを馳せることができるような気がする。

実は昨年末に、父方の祖母が他界した。
死というものにちゃんと向き合った初めての体験だったと思う。
宮古のおばあ、と呼んでいた。宮古へはずっといっていなくて(私は東京にいたし妹は東京なりアメリカにいた)父の病気のこともあり、飛行機で移動することが難しかったというのもある。
祖母は認知症が始まっていて、病院で長いこと入院していた。危篤の知らせがあったときも、先に行った父は覚悟を決めていた。お通夜を済ませてから到着した私たちはお葬式と火葬に立ち会った。老衰で、苦しまなかったとのことだった。認知症になってからの祖母の子供みたいな顔を思い出す。
お葬式の時棺に寝ていたおばあは化粧を施されていてきれいだった。人形みたいだったけど。そのときは特に悲しいという感じはしなかった。亡くなったのだということはわかっていたけど、それよりこの仰々しい仏壇や口うるさい坊主に閉口していた。
火葬場で、棺の中に入ったおばあがいよいよ焼かれるというそのとき、急に怒りのようなものが沸いてきた。皆が淡々と事を進めていて、それにのってきてしまったけれど、本当におばあを焼くのか?と思うと、信じられなかった。この行為は絶対間違っていると思った。涙が出てきた。見ると、親戚の中で私の家族だけが泣いていた。煙は黒かった。出てきた骨は白かった。形がちゃんと残っていて。みんなで箸でつまんで壷に入れていた。物凄く物理的にそれは行われた。伯父や伯母がそうして入れているのを見て、確かに日頃から感情を表に出さない人たちではあるけれど、すごいなと思った。自分の母親の骨である。
帰り道、車で送ってくれていた従兄弟が気まずそうに、「初めてなんだね。俺は何回かあるからさ」と言った。「うん」と言いながら、心の中で、そういう問題じゃないと思った。初めてだからとか慣れたからとかいう問題じゃきっとない。
そのあとは納骨で。12月で、寒かった。畑の中にある亀甲墓の塗り固められた石の扉を開けて、中の部屋に骨壷を入れる。長男が入る。ずっと一緒にいたのは次男の伯父なのに、本島に住んでいる長男と東京に住んでいるその長男が入る。ちゃんと置いたらそこでまた漆喰で塗り固めて読経。以上。
人が死ぬということは、つまり人がなくなるということなんだと。そしてそのひとのことを皆がどう思っていたのかとか、そういう場なのだと。すごく悲しかった。

この時期になってしか書けなかったのは、すぐに書いたのでは不謹慎だと思ったからだ。私は祖母のお葬式をしたという記憶はあるが、祖母が死んだという感覚は無い。写真で見る限り元気そうだし、記憶の中ではすごくしっかりした「これで鉛筆と帳面を買いなさい」といってお小遣いの使途を定める祖母である。

ペンディングではあるが、一つのメモとして。

August 4, 2010

凄い人のこと

ついったーで書いたが思い立ってこっちに書くことにした。

最近、すごいなこの人。人か?
と思うことがあり。

例えばNHK大河ドラマ「龍馬伝」。これは撮り方が独特で、人間が全体的にぎらぎらしている。
「後藤正二郎」役の青木崇高。ぎらぎらである。一歩間違えるとチンピラなのだけど、そこはしっかり侍を演じている。
「高杉晋作」役の伊勢谷友介。高杉晋作だからかっこいいはかっこいいんだけど、伊勢谷友介の目つき、身のこなし、口調、着物の着崩し方は本当に切れんばかりのキレがあり、色気がある。散切り頭で。見事としか言いようが無い。
「武市半平太」役の大森南朋もまた、実直そうで冷徹で、責任感の強い忠実な人間を見事に演じきっていた。最後の大殿様(山内容堂)との牢でのシーンも鬼気迫っていた。
「吉田東洋」役のお爺ちゃんも、恐ろしく凄味があって。ぎらついていた。何だあの俳優は、誰だ、と思っていたが、元はダンサーだったらしい(クラシックバレエ、モダンダンス)海外公演などもやっているらしく、最近になって舞台や映画にも出ているようだ。あの顔はむちゃくちゃ色々なものが堆積してできた顔だ。

そして、漱石先生のことですが。
以前に「こころ」を読み返して、ふむ、こういうものか、と思い(それなりに思うところはあった)、「草枕」は積読で、「虞美人草」を読むこととした。
本当に、景色の描写は非常に詩的であって、美しい。よくよく注意していないと何のことを話しているのか見失う。主語をあえて出さずに書く。漢詩のような文章である。登場人物中の甲野さんは哲学的であって、もう一人との問答も面白い。いずれ引用したい。
本当に、物凄い。こんな文章見たことない。人を食ったような感じを受けるけれども、すごい。art分野は本当に門外漢なので、こういうのを見るとひたすらに感嘆する。ほぅ。


こんなに凄い人たちがいて、良かったなあということ。それは人類として誇れるとかそんなんでなく、凄いと思えるからよかったっていうこと。「凄い!」というのは一種の興奮である。興奮体験がなければ、人生は盛り上がらない。感動できるということは本当に人間の感情の作用の中でも一番素敵な機能だと思う。

14歳の頃にブルース・リーを一目見て心奪われた熱心なファンの人で、自らも截拳道(ジークンドー)を理解し体得し、IUMA日本振藩国術館とUSA修斗の両方で代表を務め、ブルース・リー財団日本支部最高顧問である中村頼永さんという人がいる。テレビで拝見したところ、すごくいきいきしているし、楽しそうだし、ブルース・リーをブルース・リー先生と呼ぶほどに大好きだ。
彼も凄いし、一人の人間の人生をここまで変えてしまった(良かれ悪しかれ)ブルース・リーも凄い。凄い人に感動しすぎるとこういうことが起こるのだなあと。

こういう所謂有名な人というのでもなく、凄い人というのはすぐ側にもいて。
そんな人がすぐそこで普通にご飯食べてたりなんかするとまじ揺るぎねえなとか思ってしまう。年というアドバンテージをなくして考えたとしても。私が年をとって同じ経験をしたとしても今のこの人のようにはなれない、という。

凄い人ってほんとうにいるよなあと思った。それだけ。

August 3, 2010

音楽に救われるということ

今、EGO-WRAPPIN'を聴いている。「あしながのサルヴァドール」である。
束の間に愛を サルヴァドールに花を。

こういう曲を聴くと、無性にひとりになりたくなる。
できれば秋頃で、水辺。天王洲アイルあたりがいい。
もしくは、冬の海辺でもいい。Slowly days.
メランコリック。

ジャジーなのでお酒が飲みたくなるかと思いきや、いや、ぬるめの紅茶がいい。少し砂糖は入れたい。
ゆっくりしたい。
飯田橋のカナルカフェなんかもいいかもしれない。水辺でスロウである。初夏の雨など尚よい。ひんやりしてきて秋かという趣が漂ってくる。暗い緑のパラソルの下紙皿にのったピザやケーキ。紅茶。

こうして音楽を聴いていると気分というものが発生(若しくは変質)して、どこかへ行きたくなったり、記憶にひもづいた場所に行きたくなったり、酒を飲みたくなったり、誰かのことを思い出したり、会いたいと思ったり、散歩がしたくなったり、映画を見たくなったりする。

音楽の染み入る夜。

私の好きな音楽は、ひとりになりたい気分にする音楽なのではないかという分析。
音楽は1人で聴くものだから。

音楽を愛してるなあと思うし、音楽に愛されてるなあと思う。

さっき帰宅したらインナーマッスル不足で倒れこんだ軟弱な人間。こんなに体調が悪くて、たんぱく質がすぐ消費されてしまう体で、動悸が激しくて、立ちくらみがして、食べる物も自分の作ったパンとかしかだめで、油っこいものとか味噌汁とかゴーヤーチャンプルーとかもう胃と目が拒否している。えい、とがんばって食べる類のものは、がんばれない。

そんな状態の人間の耳にも、音楽は染み入る。心弾むほどにうれしい。あちこちの痛みもうすれる。

Oさんの「前向きに」という言葉を思い出して、「後ろ向きでOK!」というTOMOVSKYの曲を聴きたくなる。鬱の人に「がんばって」とか言っちゃいけないとかいうけれど、多分「前向きに」も同様な言葉であろう。
妹の持ってた本(リクルートのいわゆる転職特集本で、ところどころに専門学校とかの広告が挟まっている職種紹介の本)「ニホンの職業777」みたいなのをパラパラ読んだ。裏表紙に「でっかい仕事がしたい」とか書いてあって、まじなえる。(不動産証券化関係の資格の広告であった)ちなみに、くるりの「なにかでっかいことしてやろう」という歌詞は、アイロニーだ(きっと)。

徐々に徐々にカミングアウトしたけれど、軽い鬱です。
性格直せとか言われても無理だし、労われてもへこむのです。運動したらっていわれるけどそういう体力もなくやる気も出ず、焦ります。せっかくアドバイスしてもらってもそれをこなせない自分に苛立つのです。早くその結果を報告したいのに、体は動かない。自分の怠惰にあきれ果て、自信をなくし、自分が何者かであることに執着し、しかし今の状況に耐えるしかなく、そういうバッドなスパイラルです。
太宰だな、これ。
多分私は太宰みたいに酒や女遊びに行かないだけまだ軽いのでしょう。男なら太宰になっていたかもしれません。心外ではありますが。

もし太宰の時代にこんなに音楽の溢れかえる世界があったら、彼は入水自殺など考えてなかったと思う。
まじで、NO MUSIC,NO LIFE.
タワレコのCMやな。

タワレコに行ったよ、この日曜に。
「billion voices」七尾旅人
「マジックディスク」アジカン

ジュンク堂では
「詩とは何か 世界を凍らせる言葉」吉本隆明
「虞美人草」夏目漱石

スタバでは
ショートのソイラテとバゲットみたいなやつ
大阪の女子高生(総体帰りらしい)の大阪弁というか雰囲気に和む。

国際通りでわたあめを売ってるおばちゃんから一つ買う。妹の好物だから。
わたあめを持って国際通りを闊歩していた人は私です。

目的のF1速報は手に入らず。しかしいい買い物だった。お腹と背中が攣るけど。