September 30, 2010

Test

テスト

September 27, 2010

眠るまでの暇つぶし

お酒を飲むと、お酒が抜けるまで眠れない。
今日は泡盛の水割りをゆっくりゆっくり飲んでいたのだけど、胃に来ている。胃がむよむよ(強)。最悪なことに家にはさわやかになる系胃薬が無い。
あと肝臓にも多分。胃はちょっと荒れるとすぐわかるからあれだけど、肝臓先生は沈黙の臓器でわからないところが怖いよねという話では、実はない。

今日は年若き人々と飲んだ。下は18上は26。
まあ特に普通。よかったことといえば、隣の可愛い女の子とばっかり話していたら、今度ランチしましょう、私mogさん好きなんです、と告白されたことと、アロンソがシンガポールGP勝ったこと。以前、他の管理の女の子にも同じようなこと(一緒に旅行しましょう、私mogさん好きなんです)を言われたので、結構もてている。女の子に。ちなみに男の子には言われる気配すらない。お互い超ビジネスライク。思えば、こういう風に男の子に面と向かって好きだと言われたことはない気がする。

しかし、6時間居て、一人2400円という破格。沖縄の飲み屋はやさしい。多分飲んだ後のタクシー代か代行代まで考慮してくれているのだろう。沖縄は電車では帰れないので、飲んだらタクシーか、代行か、飲酒運転か、迎えに来てもらうか、という選択を迫られるのである。今はご存じの通り飲酒運転の取り締まりが厳しく、飲酒運転をすると、マブヤーにたっぴらかされるらしい。

ああ、朝刊が来た。
俺も眠らう。

September 25, 2010

今の関係性ばっかり見る

妹の婚約式がもうすぐで、さびしくなるなあと思いながらも、今は楽しく、今日遂に、家族5人全員が同じ家着Tシャツを偶然着るということを達成した。写真、撮った。セルフタイマーで。

家族でいるとすごく楽しいんだけれど、ふとここを出るのかなあと考えたりして、私もいつか結婚して家を出て両親をここに残すのかなあと。自分の家庭で手いっぱいになって、ろくに電話もしなくなるのだろうか。
っていうちょっとセンチメンタル。秋だからか。いやいや。秋じゃないし沖縄。


たまに、過去のものに触れることがある。話題でも、写真でも、手紙でも。
過去にあったことについて。過去の二人の関係。過去の私に過去の君が綴った手紙。

かつてつきあっていた人がくれた手紙や写真、プリクラ。思い出。
そういうのって二人の関係を過去にするものだと思う。別れた後関係が変わってしまっても、生きてる限りは関係は続いていくというか。意識するにしろしないにしろ。Life goes on.なのに。今だって連絡は取れるし、年に一回くらいは連絡メールか何かでやりとりはするのだ。で、おそらく会えば普通に動揺するから、それはまだ友人になりきれない関係なのだろうけど、とにかく今も人間関係は続いていて。でも、そういう過去のものがあると、ついあの頃があって、今はない、っていう図式を浮かべてしまう。
今もあるよ。関係。


付き合う期間が長ければ長いほど、やっぱり過去のものというのは残る。
そして。幸か不幸かすぐ別れてしまう場合には、未練も感情も記憶も、ものそれ自体もそんなに残らない。だから、すぐに別れた人は、記憶が薄い。誕生日とか絶対覚えてない。年齢も危うい。顔もだんだん思い出せなくなる。名前は世界史の勉強の成果か、覚えてる。

江國香織の「ホリー・ガーデン」という小説に、果歩と静江という二人の友人同士が出てくることは前にも書いたのだけど、果歩は、恋愛から足を洗ったという割に、過去をずっとひきずっている。クッキーの缶の中に「津久井」という元恋人の写真、厳密には彼のとった果歩の写真がたくさん入っており、果歩は時たまそれを開けてしまう。そこにあるのは時間なのだった。
静江は画廊オーナー(芹沢というのだが)と遠距離不倫をしている。あくまで友人として付き合っていて、肉体関係を含んだ友情が一番美しいと信じ、私はそれをもう獲得している、と思うのに、ふいに不安になることがある。その芹沢曰く「妻なら一人いるよ」。「でもどうしてそんなことを聞くんだ?」

静江なら、芹沢と写真など、とらないのだろうなと思う。今が良ければその関係でいればよくて、過去の感傷に浸るような真似はしたくないと思っているんだろうなと。
今だけに集中するということ。今ある関係がすべてであるということ。

私はと言えば、手紙も写真もプリクラも捨ててない。というか、相手に申し訳ないのもあるけど、捨てることの方が意識してるような気もするし、捨て方も微妙だ。
これからの友人とのなぜだか親密だった過去、というような位置づけでいいのではないかしら。しかし今までの恋人には過去の恋人の写真を捨てろとか言われなかったな。言う人もいるみたいだね。女子も男子も。
しかし携帯は何回か壊れてるから、携帯の写真とかメールとかは残っていない。メモリもね。

恋愛から足を洗いたいというスタンスとしては果歩なのだけど、現在時点でもう過去にする準備をしてしまうのは嫌だ、という点では静江だ。


ギブス/椎名林檎 歌詞より
以下引用

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あなたはすぐに写真を撮りたがる
あたしは何時も其れを厭がるの
だって写真になっちゃえば
あたしが古くなるじゃない

あなたはすぐに絶対などと云う
あたしは何時も其れを厭がるの
だって冷めてしまっちゃえば
其れすら嘘になるじゃない

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そういうのを我慢する恋愛は正直しんどいのだと思う。冷めてしまうことを受け入れて今を恋に生きる。
でも執着して、先の呪いの言葉を何度も言うのはもっといや。
しんどい恋愛って、別にいいけど、しんどいまま結婚しちゃいけんなあと思う。

「かつて恋をした男と女が男友達と女友達になるには、たぶん、必要なことが二つある。一つは互いに全く未練がないこと。もう一つは、二人とも幸せなこと。」江國香織
多分真。

September 24, 2010

即興ということ

即興で音楽を奏でたり、即興で何かを喋ったり、即興で歌を詠んだり、即興で踊りを踊ったり、するということが、結構評価をされると思うのだけど。

確かに即興でできる、というのはすごいことなんだと思う。何にも準備なしに、急にさあ見せてごらんなさいと言われて、ぱっとできるというのはそれだけの知識なり経験なりをその人の中に蓄積しているということだし、かつその蓄積をその場で再構築できるということだから。

でも、即興の作品が美しいのかというと、それはわからない。即興であるということを差し引いて考えれば、なるほどよいものだ、ということになるのであろうけれど、単に作品として見たときに、それが入念に準備して工夫を凝らされ何度も修正されたものと、即興のものであれば歴然とした差がつくと思うのだ。
当たり前なんだけど。

なんでそんな当たり前なのに、即興でわざわざパフォーマンスをしたりするんだろう。って、最近のジャズトリオのCDを聴いてて思う。ものすごくハイテンポのピアノジャズで。鮮やかだけれど乗りきれず、情緒を感じることもそんなにない(しかも、彼らの曲が即興であるかどうかというのは未確認である。大体ジャズなんだから即興性は程度の問題だろうと。違ったらすいません)。

で、多分。即興を好むというのは、その鮮やかさということが理由なのだろうなと思う。
その場でしか生まれえない、一瞬の閃きのようなものがある。
その場で生まれてきた音、和音、テンポ、メロディ。その閃く姿が鮮やかに見え、斬新に見え、さらにその一回性、限定性に酔うのかもしれん。
多くの人はそういうのに弱い、私もだけれど。でも一回しかないことなんてあふれている、ほんとは。

でも、私は即興作品でいいなあと思うことはあまりなく、かつ即興であるということによってそんなに感動もしない。
とそのピアノジャズを聴いていてそう思う。
で、あんまり即興っていいもんじゃないなあ、という感想を抱いていて。


で、さっきイチローが10年連続200本安打ってニュースが入ってきたんだけど(すごいね)、彼らのやってる野球とかというものは、全部即興だなと思って。
毎日何時間もその試合の4打席かそこらのために、バッティングやら走り込みやらをするのである。下準備は欠かしていない。でもその試合のその一瞬には即興である。
野球が即興で音楽を演奏することとどこが違うのかというと、その主体が自己に限られているかそうでないか、ということだと思う。自己だと狭すぎるな。自己を含めコントローラブルな人々に限られているかそうでないか、か。
野球は敵味方混ざって審判や観衆や天候などの各プレイヤーが、即興で試合を作ってゆく。その場の判断で走ったり、スライディングしたり、バットを振り下ろしたり、球種を選択したり、石井がピッチャー返しを素手でつかもうとして指を痛めたり、野手のエラーがあったり、応援の声をふりしぼったり、野次を飛ばしたり、雨が降ったり、風が吹いたり、するのである。それは誰かのコントロール下にはない(ルールはもちろんあるけど)。即興でしかつくれないのである。
かつ。
甲子園などは、トーナメント制なのでその試合に負ければこれ以上その大会で試合をすることはできない。3年生なら卒業してしまうため、ここに高校球児として戻ってくることはできないのである。この、一回性。限定性。悔し涙と見ている方の切なさの理由。
そう考えると、私即興性、好きじゃん。と思った。

そんな日。

September 21, 2010

台場

私は台場台場言っている。自覚もある。言うだけでなく行っている。週に1度は行きたくなってしまう場所だった。東京で好きな場所は?と聞かれたら、即答した。

「お台場ってフジテレビとか?」「あそこ面白い?」
いやあそこは面白くない。カップルばっかだし、施設も微妙だ。遊園地もそんなに好きじゃないし。
つまりお台場のいいところはそこではない。

日本科学未来館があるところだ。あの未来感がいい。プラネタリウムとレイ・ハラカミと原田郁子。谷川俊太郎と麻生久美子とARATA。あのジオ・コスモスがいい。あれを見上げて寝そべるソファとそこで流れるアンビエントがいい。その窓から見上げる青空がいい。

しかし、最近はそれだけでもなく。
未来館の近くにあるガントリークレーンがいい。俗にいうきりん。きりんのような形をして、船の積み荷を下ろしたり積んだりしている。夕方から夜はそこの灯りで空が赤く染まる。大井町に住んでいたから、いつも赤い空を見ていた。それは異様な景色なのにどことなく落ち着くような空で。
沖縄にも実はガントリークレーンはある(そりゃあるな)。那覇の泊港から出るとき、右側に黄色と白のきりんが2頭。でもなんだか細っこくてさびしげ。

でも、なんでそんなに台場台場って言うのか、最近聞かれて。前職でもよく聞かれていたけれど。そこにきりんがあるから、っていう何かのパクリみたいな答え方をして。
でもそうではない。多分、台場は、一人になるのに絶好の場所だからだ。
一人になりたいなあと思うことってある。生活圏内にはたくさんの人がいて、それはそれで楽しい時もあるけれど。カフェで一人になっても、隣にはお客さんがいるし、店員もいる。話す相手がいないだけで。歩いていてもそう。街には人があふれている。
人を気にせず歩きたい。何も考えずにいたい。
そういう、空間に対する餓えのようなものが私は常にあるのだと思う。
高校時代にああいう絵を描いたのも、一人になりたいということだろうし、Coccoの歌で「うたかた」(歌詞)が好きだったのもだだっ広い校庭に誰もいない放課後を彷彿とさせるからだし、「夢路」を好きなのも、ひたすらなだらかな道と丘と赤い空を思い浮かべるからで、そこに誰も入り込む余地はない。いつだってCoccoは一人だ。

そういう風なところにいつか行きたいと、思っていて。
もしかしたら砂漠がそうなのかもしれないし、どこかの岬から望む海がそうなのかもしれないとも思っていたけれど、つまり台場にはそういうものがあると、私の中の故郷を求めるような気持ちが反応したのだと思う。
よく、私は空を見ていて雲の移り変わる造形に、その異様な大きさに、美しさと脅威を感じるのだけど、そうしているとき一番、神様っているなあと思う。そして、いつも、帰りたいなと思う。なぜか。沖縄に、とか、家に、ではなくて。私のいるべき場所は本当はここじゃないのに、こんな風に地面に足をつけてベランダの格子につかまっているような私ではないのに、という。

そういえば、「僕の地球を守って」という一部で大ヒットした少女漫画があり、私は中学生の頃いたく感動したのだけど(1987年から1994年に連載なので大分古かった)、その一番最初に、主人公の女の子が月を見て「帰りたい」と思うシーンが出てくる。あー読みたい。家の戸棚の奥深くにしまわれているはず。。某tubeにもアニメがUPされてるけど漫画の方がいいな。
そういうわけで、「帰りたい」って思うのは結構普通なのかなとも思う(この漫画の場合はいろいろ訳があるのだけど)。あーでも動画でも見てほしいかも。

台場が完璧にそういう場所かといわれると違うのかもしれないけれど、少なくとも東京にいた自分には、あそこが解放感が一番の場所だったってことだ。

ふむ。そんな感じ。
ぼくたま観よっと。

September 19, 2010

最近本を読んでいない。ちゃんと。文章は何らかの形で触れているのだけど。
で、最近江國香織の「泳ぐのに、安全でも適切でもありません」を再読した。薄い文庫なのですぐに読める。
江國さんのものは本当に恋愛が多い。恋愛小説の名手らしいので、それもそうかと思う。

で、その本は短編集で、いろいろな恋愛が出てくる。もう終わってしまったもの。恋愛のただ中にいて幸福で倒れそうなもの。倦んでいるもの。若い他人の恋愛に触れて胸騒ぎがするようなもの。触れるか触れないかのような危うさ。
それに、孤独。
どんなに愛し合っていても、人は孤独なのだということ。

そういうことを嫌でも思い知らされながら、それでも果敢に恋愛に立ち向かう人たち。


そうして、もしかするとどんなことでもそうなのかもしれないが、恋愛を語るには具体的でないといけないのだなあということ。
さっき妹が、「愛は名詞ではなく、動詞である」ということを言っていたけれど。まあそれにも通ずるか。
具体的な相手、関係、雰囲気、発する言葉や空気、どんな気持ちでいるのか、それをお互いがどういう風に思っているのか、どんなエピソードが二人の間に今まであったのか、等々、極めて個人的なものが恋愛であり、そしてそれはあまりに個人的過ぎるがゆえに周囲にはわからないのだということ。
そしてそれなのに恋愛のある瞬間を紙の上で再現することに成功しているのが彼女が恋愛小説の名手と呼ばれる所以なのだということ。

「十日間の死」という作品が入っている。
その中に、失恋(というかなんというか)の後に一人ホテルにこもって泣いている主人公はこう思う。
「マークのためになんか泣いてやらない。私は失われた真実のために泣いているのだ」
失われた真実。あまやかで途方もなく幸福な日々。愛し愛された日々。
江國さんは別のエッセイで、その一瞬だけでいいから絶対が欲しい、後でそうでなくなったとしても全然いいから、その時にそう信じられるような絶対が欲しい、というようなことを言って、男友達と口論するエピソードを書いている。

そういう絶対がもしあったとして、でもそれが覆るとしても、それがその時絶対であったということが真実であれば、それを抱いてかなしくても生きていけるということなのかしら。
失われた真実のために。
そんな考え方をしたってやっぱりかなしい。恋愛が終わるのは。

江國作品で好きなものに「ホリー・ガーデン」がある。
この中で、果歩と静江という二人の友人同士が出てくるのだけど、不倫の遠距離恋愛に疲弊して新幹線で帰ってくる痛々しい静江を見て(静江当人は充実していると思っていて気づいていないのだけど)、果歩が、恋愛なんていうものからさっさと足を洗えてよかったと思っている、という下りがある。
ああそういうものかなと思う。果歩のスタンスも、静江のスタンスも、わかる。恋愛をしている間の苦しさと幸福と疲労と、恋愛からすっぱり足を洗ってコントロールしようとするドライさや後悔、逡巡。

加えて言うと、「思いわずらうことなく愉しく生きよ」という作品の三姉妹、麻子、治子、育子、それぞれの気持ちや行動もわかってしまう。

何にせよ、孤独なのである。それを知っていてなお?

でもな、安吾が言ってたよ。
「孤独は、人のふるさとだ。恋愛は、人生の花であります。いかに退屈であろうとも、この外に花はない。」


あーなんも新しいこと言えんな。

September 9, 2010

「正しい」について

「正しさなんて全然問題じゃない」
と書いたのは江國香織で。確か「いくつもの週末」というエッセイで、これは夫婦生活をテーマに書いたエッセイなのだけど、その夫婦間で甘やかす話とか(夫が「水」と言ったら何をおいても持って行ってあげるのだとか、そういう)、夫婦げんかの話とか、を書いていて、その中で、この言葉が出てくる。
その夫婦という関係性の中で、正しさは全然問題じゃないのだそうだ。


正しいことってあるのだろうか、とある時期よく考えた。
正しいことと正しくないことの限界事例に出会ったとき、何かを何かだと言い切るのはとても無謀な気がした。
それが正しいとなぜ言えるのか、根拠は何なのか、個人や文化圏の価値観では根拠としてあまりに脆弱ではないのか、正しくないとされた立場は保護されなくていいのか、結局最大多数の利益がそれをつくっているのではないのか、等々。
「何かを悪いというのはとても難しい 僕には簡単じゃないことだよ」
というのは東京事変の透明人間という歌の歌詞。

こういうことって誰でも考えることだと思うのだけど、世の所謂発言者というか、大人たちというか、その人たちはでもちゃんと「正しい」という言葉を使う。怖がらずに。その人たちがその私の抱いたような「正しさ」というものへの幼い疑問を承知したうえで尚その言葉を用いているというのは確信に近くて、それはやっぱり「正しい」というものの存在をみんな肯定するのだろうということ。

内田樹が、本の中で、正しい意見だけを述べようとすると、ありきたりな抽象的な言葉にしかならないということを言っていた。それが具体性を持てば持つほど異論が提出されることになり、その異論はその発言の「正しさ」をその分損なうことになる(とその人には思われる)、と。だから正しいことだけを述べたい人は具体的なことを言わないのだと。そして曰く、
「大切なのは、『言葉そのものが、発話者において首尾一貫しており、論理的に厳正である』ことよりも、『その言葉が聞き手に届いて、そこから何かが始まる』ことである。」。
同感。

仕事をしていてもそうなのだけど、私は正しい言葉を使いたがる(本当に使えているかどうかは別として)。仕事においては別の意味で伝わってしまったら混乱するので、別に気を付ける分には構わないとは思うのだが、そういう面では多分必要以上に時間をかけてしまったりする。法律をやっていたせいかもしれないとも思う。これはつまり、リスク回避なのである。先のエントリで、自分で先につっこみを入れておくというのも、リスク回避だと思う。
つまり異論を提出されるのが面倒だとか、叩かれるとへこむから嫌だとか、そういうことなのだと思う。責任をとるとか怒られるとか。
ちなみに、異論を提出されることは直ちに自分が非難されることだとは思っていない。それを法律の議論をやるまでは同一視とはいかないまでも多少影響しあうと思っていたけれど、あの世界にいる人たちはとてもスマートに議論をする。その議論とその人との間柄とはまったく関係しない(まあ当たり前なんだけど)。そこらへんがすごく好き。フェアだと思う。

で、私にはその、正しいことだけ言いたいという傾向があるということ。確実なことだけ。
それでなければその正しさや確実性に留保をつけるのを怠らないでいたいというこれもまた担保をつけたがる傾向にあるのだということ。一体なんだろうこの欲求。

私が何かを正しいとしてしまって、その後に違った、というときの取り返しのつかなさが怖いのだろうか。
そういえば、小学5年生の時に私は学級の新聞委員の委員長をしていて、ちょっとしたクイズの景品をつくるために自分の判断でカンパを募ったのだが、ある子のお母さんがそれを知ってすごい剣幕で学校に乗り込んできたということがあった(カツアゲか何かと勘違いしたのだと思う)。その場に私はいなかったのだけど、翌日それを聞かされて私は結構驚いた。たかが100円でもお金のことはナイーヴなことなんだと、学んだ。先生がちゃんとその時説明してとりなしてくれたので、その場で事態は収拾した。
多分そういう感じで学級委員とか従兄弟たちをまとめるとかが多かったから、リスク回避の傾向が幼少の頃から育ったんじゃないかしらという推測(従兄弟たちを連れて遠くまで出てしまいこっぴどく叱られたこともある)。なんか責任を取らされる位置にいたかなしい性というかなんというか。


まあ今はもうそういうの、いいや。
なんでもへいきのへいざになりたいや。

September 8, 2010

散文

今日の現代文。
まあ、今日じゃないけど。この前の現代文。確か2001年センター本試験第1問。
河合塾のHPで見られる。すごい。まじか。
センター2001本試国語Ⅰ・Ⅱ

これ読んだとき、デジャ・ヴを感じた。というか。私とかまさにこういう感じではないか。前の日記を訂正するとか。
「日記は私の社交界、私の仲間」(いやそんなこと思ってないけど、なんというか、日記を通ってつながった人たちもいるわけで)

要は日記についての文章で、日記というものを自己の蓄積ととらえ、ともすれば自己に耽溺し、自己を高めるためのものというよりは自己を掘り進めることそのものが目的化していくという、ある種病的な状態になる、的な話で、でもそれもいいじゃん、みたいな結論である。
まあここでいうパヴェーゼとかいう人のような苦渋に満ちたなにかではないけれど。

日記というか、ブログというか、何かを文章にしてそれを踏み台にしてさらにまた文章にして、といういわゆる文章化は、考えるという作業にとても適していると思う。し、ブログという場所でそのまだ非常にやわらかい暫定的な考えを、ある程度まとめて誰かに見てもらおうという意識は、考えるという作業を効率化する、と思う。まあ、私にとっては。なんとなくで書いてるけど。
考えるということは、考えているのが自分なわけだから、自分の内部を探求しているということにはなるかもしれない。他者のことを考えてはいても、他者のことをこう考える自分、という言い換えができる。きりがないけど。でも別に自分の内部へ耽溺していっているわけではないような気もする。

なぜ書くのだろう、なぜ公開するのだろう、という問いはよく自分に向かって発せられるわけだけど、もうたくさん書いたような気がするから、もういいよね。と思うのにまた書いてしまうのは、基本的に自分の行動やら感情やらにつっこみをいれないと気が済まない、またはつっこみを意識して先に自分で言ってしまおうとする、というような意識の表れであろうと分析する。
そういうのは、多分石橋を叩いて渡るというか、最初に一部の隙もなく武装しようというか、守りなんだよなと思う。


ブログの話に戻る。
芸能人のブログとかって、すごい字少ないというか、今日何々をしましたーっていう本当にいわゆる日記だなあと思う。あと写真。いや芸能人って十把一絡げに言うとよくないけれど、いわゆるアメブロ系というか。写真が求められてるのはわかるんだけど、文章あんなに少なくてみんな見に来るんだ?という不思議(私が見に行くところが文章主体ばかりだからであって、自分のブログは自分でも長すぎると思っている)。
でも文章読みたくない?っていう。姿ならテレビや写真で随分見れるわけで、その人の内面が知りたくてブログ読むんじゃないのか。書き手が単に忙しいのか。すぐ週刊誌に書かれちゃうからか。最近はmixiニュースとかでもくだらんのあるしな。

最近私はわろきぞかし。

そういうわけで、いたって真面目なエントリ構築中。題材だけ。
・「ほんとうのこと」について(吉本隆明「詩について」)
・「正しさなんて問題じゃない」こと(江國香織、内田樹)
・「自我」のこと(内田樹・自分)
・境目のこと
・孤独のこと(母関連・江國香織)
・打算のこと


まあ先人というか、頭のいいおじさん・おじいさんの思考は本当にためになる。
長く生きてるだけでやっぱすごいのに、しかもずっと思考してるような人に敵うわけない。天性の知的センスと探求と。

September 3, 2010

灸のすすめ

うちではお灸が流行中である。
せんねん灸のサイトに「つぼブック」なるものがあり、なかなかによい。詳しくて見やすい。ていうか、Amazonで売ってた。私はPDFで保存した。

そして、灸楽しい。火つけるし。ライターの火を私はいままで一回でつけられなくて(火花を散らすのが下手だった)、でもこれを機会に上達。火遊び。
じりじり熱い。私はサウナとか夏の暑さとかみたいな全身性の熱い苦行は無理なのだけど、こういう局所的なものは大丈夫。鍼・灸。

もぐさの匂いもなんだか落ち着く。そういえば、お灸の箱のサイドに「MOXA」って書いてあった。おおもぐさかっこいい!JAXAみたい!

今よく据えているのは曲池というツボ。肘の少し内側にある押すと痛いところ。頭痛とか肩こりとか目の疲れなんかにいいみたい。別にお灸でなくとも刺激を加えればいいようなので、是非。

September 1, 2010

ラブリー・ボーン

今日は台風で、台風の割には荒れなかったのだが、とにかく朝から学校は休みだし塾も休みにするということで、対応に追われた。
で、台風が来るといえばDVDを借りに行くというのはまあ多くの人が考えることで、午前中店に行ったらいまだかつて見たことのないほど混んでいて、しかもちびっ子ばっかりでした。伊達メガネをかけていたものの無駄にどきどきした。


で、家族で見るものとして選択を誤ったなと見始めから後悔したのだけど
「ラブリーボーン」
観た。家族で見るには失敗、個人で見るには良作。
観た後、家族は一様に暗くなってしまった。私の選ぶ映画はいつもそんな気がする。デートで見に行く映画(「誰も知らない」)も、妹と見に行く映画(ダンサー・イン・ザ・ダーク)も、暗くなってしまった。そしてその時は、二人で見なきゃよかったって思うんだけれども、結局後々好きな映画になっていることが多い。


そもそもはBrian Enoが曲やってるというので知った作品だった。映像が美しくて主人公の子がかわいいし、そもそも映画情報というものが入ってこない生活をしているものだから、これくらいしか思いつかず。ちなみにドリームワークスで、スピルバーグ製作総指揮だそうである、あとで知ったけど。


で、結構重い。
映画の序盤から主人公の女の子は殺されてしまうのだが、勿論それを知って観てるのだけど、殺しの前や後がリアル。家族には「ゴースト」の恋人じゃなくて家族版、と説明していたけど、時代が違う。ホラーではないと思って観ているのでそういう場面が急に出てきて恐ろしく感じる。ファンタジックでコミカルな場面がありつつなので、尚更に。

殺されるということ。殺すということ。その事実。人はみな死ぬということ。報いること。恋ということ。生きるということ。断罪のこと。

ローで散々行われた議論(議論にもなっていなくてすでにそれぞれの考えを持っていて然るべきというようなもの)だった、犯罪被害者のこと。刑罰ということ(つまり報いるということ)。模擬法廷で、少女に生きたままガソリンをかけ火をつけて焼死させた被告人(実際の事件である)の弁護人役で最終弁論をやった時のことを思い出した。どうしたって弁護する余地のほぼない事案だった。私はその時弁護人を演じるにおいて特に被害者に感情移入はしなかった。想像はしたし、恐ろしかった。被害者の恐怖と苦しみ。それを助けなかった被告人。
ただ、弁護人の仕事は被告人を弁護することで、私は弁護士役だった。

そのあとになってから、修復的司法という授業を受けた。修復的司法というのは、今までの刑事システムにおいて断絶された犯人と家族や地域を、敵対させたまま憎しみ合ったままにしておくのではなく、関係を修復していくようなもう少し広い範囲で取り組む司法を目指すべきであるというような主張である(まあ司法の枠にとどまらず)。担当教授も修復的司法の提唱者であった。模索中という感じだったけれど、結論は出ないままに授業は終わった。もしそんなことができたらどんなにいいだろうと思った。一緒に履修していた友人たちは揃って懐疑的であった。あきらめて捨てきることもせず、なんとかしてそのやり方を模索しようともしなかった。その時のわたしにとってこれは座学であって、目の前の司法試験はますます巨大化し目の前に立ちはだかり、体を不摂生が蝕んでいた。でも、記憶には残ってるなあと今少し感慨深い。


映画、私は結構よかったと思う。所謂、一つの答えだ。


機会があれば。