October 29, 2010

indescribable.

色々な音楽を聴いていて、どんな音も音として響くのだけど、琴線にふれるというか、こころの近くまで来る音というのがあるなと思う。

でも、例えばそれは「ピアノの音」というように一概に言えるものではなくて、同じピアノでも弾き方が違えば表情が違って、単に聴こえるなという認識しかできない音であるときもあれば、脅迫的な音もあり、沁みてくる音というのもあり、穏やかになぜていく音もある。弾き方かもしれないし、音の位置かもしれないし、和音の作用かもしれない。
でも、その音がやさしいのは、その音を作った人がやさしい気持ちで作ったからだと思うし、その音がとがっているのは、その音をとがった気持ちで作ったからだと思う。作曲した経験はないけれど、なぜかしら、そういう考えが私の中にはある。

で、音は言葉ではないから、言葉の束縛から、法則から自由である。
と共に、音は音なりに、ある程度の法則に従っているのであろうとは思う。人間が音波として認識できる範囲というのは決まっているし。出せる音というのも楽器の数に拘束されているのかもしれないし。
楽器という風に限定しなくてもいいけれど、つまり音が出せるものに。それはカシャカシャ言うキーボードの音でもいいのだけど。そういえば、コーネリアスの「toner」って曲はまさにプリンタの音を音楽にしちゃった曲だし、ビョークおばさんの「dancer in the dark」の中の「Cvalda」も工場の機械音をそのままビートやパーカッションにしてしまった曲だ。
で、そういう音による表現方法というか、伝達方法に、改めて気づかされているという実感。

「夜はやさしい」で体験したのは、詩を読む人が違うだけで、こんなにも作品の表情が変わるのだということ。麻生久美子の声はとてもすきっとしていた。原田郁子の声は、やわらかく手さぐりだった。
七尾旅人の声を聴いて感じたのは、人間の声というものの可能性。
岸田繁の声を聴いて思うのは、ものすごく正しい重さで届く声があるのだということ。

「特別な声」というのは存在するな、と思う。

たとえば音が、たとえば感触が、たとえば色が、あまりに自分の中で肥大していた言語の占める位置を脅かしつつある。

でも、相変わらず言葉も好きで。
文章の力にもまた、感動を覚えて。言葉を使ってこんなに表現が、その才能にある程度関わらず可能なのはとてもフェアで、幸福なことのように思える。

なんというか、それよりなにより、この世界、この時、それを伝えようとする人間の熱、が美しい。心ふるえる。

October 27, 2010

女の文章とか感性とか

妹が、

「江國香織と椎名林檎は似てるよね」

と言い、

そういう考え方もあるか、と

思った。


センター96年本試の第一問の評論を読んで真っ先に

「ああこれは女性の文章だ、絶対にそうだ」

と思い、実際そうだったのだが、ほとんど読んだことのない人の文章であった。

なぜわかったのかしら(でも多分、皆さんが読んでもそう思うと思う)。


そういう女性の思考の類似性を思う。
正確にいえば、そういう表現する女性の思考の類似性、か。


96年の本試の第一問は、「女」と「鬼」についてであった。
まず、古典文学や芸能における鬼は女を通して人間と交流することがある、という話。鬼の無垢な部分、優しさの部分が女と近接しているからだという話。
次に、女が鬼に変わる話。奥州黒塚の鬼の話、というのを持ち出す。
公家の乳母をやっていた普通の女が、まあいろいろあってそれと知らずにわが子を殺してしまう。で、狂気のあまり殺人を犯し続け、それをある僧侶に見られるところで羞恥憤怒の極み、
鬼の性をあらわし僧を殺そうと追いかけるというもの。
それを受けて、筆者。

「それを見られたことの怒りと羞恥に思わず鬼へと変貌する刹那には、怖ろしいというよりはむしろ哀しく美しい要素がまじっている。」

「いささか怠惰に、自在に、拡散しがちな現代の自我は、次第に希薄化さえしはじめているようで、時にあの、古い女が鬼となっても遂げようとした激しい昇華の一瞬は、それゆえにいっそう魅力的なのではないかと思わせられる。」

出典:馬場あき子「おんなの鬼」


こういう、感性。
女であるからこその鬼への眼差しというか。
女が鬼になるというときの悲しさ。美しさ。情熱。激しさ。大抵、女は激しい羞恥のために、もしくは激しい恋慕のために、鬼になるのである。

比喩的に用いられる「~の鬼になる」というのもまた守るべきものがあってなるものなのかもしれないが、そういうものは男性的なものである。

古い女の押し殺していた自我のフラストレーションが爆発した姿が鬼なのだと。


私は男も女も特に文章に違いなんてないという風に思っていた。というか、男女間で書く文章の性質が変わるということを認めるのが嫌な気がしていた。
それはそういう女性だからそういう文章を書くのであり、高村薫なんかものすごく男っぽい小説を書く、と。逆に男性の紀貫之は「土佐日記」を書いている。


女なら、女が鬼になるということに、同情や悲哀や切なさや美しさを感じることができる。そこまでのフラストレーションを爆発させることのできるほど耐えに耐えた姿、それを爆発させた昇華の一瞬は魅力的ですらあるのである。それは私たちの仲間であり、私たち自身がそうなっていた可能性だってあったわけだから。

でも男は、女が鬼になるということには恐ろしさをしか感じないであろう。こわいわ。
恋愛小説の名手に女性が多いのはそういうわけで。


この評論の終盤に差し掛かるにつれて、結構この人の文章にほほうと思った。

評論なのに感性で、艶があるように感じられる表現というのは色気があってよい。

October 22, 2010

parallel

東京都心はパラレルワールドらしいよ。
相対性理論はすごいな。

沖縄に戻ってきたら、ああ日常だと思ったけど、東京へ行った時も、ああ日常だと思って。京都に行けば行ったで、地下鉄を普通に乗り換えて、iPodで音楽聴いて、四条烏丸に行ったのも知らない度は銀座に行くのと同じような感覚。
つまりはそこにいる間それが日常というか、そこが世界のすべてで。
世界は簡単にくるりとひっくり返る、と言ったのは江國香織だけど。

で、パラレルにつながった。

考えてみると違う場所に同時にいられないのだから、そのときそこではない場所は別次元というか、まあ次元は同じなのかもしれないけどある空間上の一点と一点で、交差しないわけで。別ワールドなわけで。
それが急に電話でつながったり、テレビの映像でつながったり、Webでつながったりして、ああここ以外にも世界があるのだなと認識する。それらが無い時代は本当に世界が断絶されていたんだなと当たり前のことを思う。たとえば、山とか、海とかによって。だからこそ山や海は偉大だし畏怖すべきものだったような気もする。

改めてすごい時代だな。
リアルタイム。
ここ沖縄だよ。
友人がどっかの島で星空を眺めながらツイートするのを、銀座で羨ましがる別の友人。

みんなが同じものに触れられて、共有できる。

距離は距離でそこに実在して、でも精神というかその人間の中身だけが自分の指先から出る文字とか、声とか、そういうのを使って別次元のWebっていう世界で、パラレルワールドで、出会っているなと。
こんなの想像できた?

まあ、今あたりまえのこと言ったけど。
あたりまえってのがまたすごくない?

October 21, 2010

京都雑感

メモの次は京都雑感。そうなるよね。

所用で京都へ赴き。
家族が一緒だったので、単独でふらふらするわけにはいかなかったけれど、2泊のうち2夜とも友人たちに会うことができてよかった。
一つはイレギュラーな感じの会。友人夫妻と友人を会わせるという。初対面なのに楽しく。これを機に皆さんが仲良くなったらこれ以上の喜びはありませぬ。
もう一つは友人とカフェ。いつも通りの友人。いつもと違う場所。かっこかわいい。研修頑張ってね。

しかし地図って便利。
今回ある程度行く場所があったので、割とちゃんと地理を頭に入れていったのだけど、この前のあまりに京都予習してなさっぷりが思い出されて、ちゃんとすればちゃんと回れるよなあと思った次第。まあ当たり前のことだ。


観光としては六波羅蜜寺、清水寺、細見美術館。

六波羅密寺の「空也上人像」は、妹の日本史の図説で見て以来目に焼き付いてしまった像。阿修羅よりも、薬師如来よりも、見たい。
小さいお寺で、裏の小学校では運動会をやっている。なんだかいろいろ混在した空間。
で、期待通りというか、期待以上で。空也自体が大分変った像なので、それだけでわかりやすく面白いのだけれど、一つの作品として心打たれるものがあった。
穏やかに苦しそうなのだ。
痩せ細った体、重そうな鐘、強く握った鹿の角の杖、着物の裾のゆらめき。絞り出すように口から出る「南無阿弥陀仏」。あの表情。目に宿った光。
宝物殿というか室というか、小さな部屋に8体くらいの重要文化財指定の像が並んでいるのだけど、どれもかなりいいものだと思う。
空也の他には、運慶と湛慶の像がリアリティ。手の甲の血管とか。見つめ合うと動き出しそうなくらい。

清水さんは3回目くらいだけれど、毎回よく混んでいる。紅葉の季節がこわい。
スケールがでかいよ。遠くにかすむ京都タワーもいとをかし。

細見美術館では「琳派展XIII お江戸の琳派と狩野派」。
全然詳しくないけれど、間違いなく素人でも感動できるくらい巧いというのもあり。
全部巧いわけだけど、特に感動したのは狩野探幽の「風神雷神図屏風」。
風神と雷神を見たはずはないのにあのリアル。贅沢な余白が余白ではなく。線の躍動と繊細。風が起こり、雨が降り、雲がわき、雷が鳴る。人間が描いたのかこの絵を。

俵屋宗達のとかよりこっちが個人的な好みとしては、はい。
美術館的にも構造とかキャプションが変わっていて、面白かった。


で、京都は5回目くらいなのだけど。

京都の人は冷たいって思ってたけど、そうでもないのかもしれないというのが今回の感じ。
京都の人に限らず、観光で一瞬来た人に対して、そういう人々がたくさん歩いているという状況に対して、違和感とか別種の人扱いするのもわかる。沖縄でも全然ある。
でも全然沖縄とは違う。

京都クオリティ、というのはやっぱりあるなと思う。
街づくり。雰囲気づくり。日本の代表的古都としての誇りというか、守るものがある我慢強さというか、底力とでもいうような。

洗練。

落ち着き。動じない感じ。
あまりに先鋭的な保守。守りながら最先端を突き進んでるというか。すごい場所だ。
この人たちがいるから、京都は京都なんだろうと思う。

以前町屋風ドミトリーに宿泊した際に、夜絵葉書を書きながら、オーナーさんやほかのお客さんと茶の間で話したことがあって。
そのオーナーさんは30代くらいの北海道出身の人だったのだけど。「京都ってのはね、心の狭い人間がそいつらのためだけに作った小さな王国なんだよ」というようなことを言っていて。でもその人は京都でドミトリーをやって住み着くくらい京都が好きなはずで。お冷出されたら帰れって意味なんだよ、とか口をとがらせつつも、目を輝かせて京都の粋な喫茶店や展覧会の話をしていた。
そういう気持ちが分かったような気がした。
ああ、全然違うわ。

場所でこんなにも違うなんて。移り変わる色合いは木の葉だけではないのだな。愛でるべき人々。都市というのは人ありきだということ。

October 19, 2010

2010.10京都

で、今度は京都。

メモ。

神戸空港
台場
きりん
神戸は右
京都は左
エスカレーターのはなしです
京都おちつく
同志社
結婚式
ロー
晴明
二条城
御池通り
町屋
家族構成から勤務先まで
秀逸お手洗い
高血圧
ロキムコ
吸光率
AQ
5点


五条で歩きすぎる
なかうなう
六波羅密寺
空也
運慶
湛慶
リアリティ
動きそう
清水
人々
奥行き
細見美術館
シール
探幽
風神雷神
写実と幻想
鮮やかな青
あお
ART CUBE
竹と鹿
月のりんくわく
祇園
連日
四条烏丸
お洒落カフェ
自転車
研修
精神論
ドラマ
地下鉄
hibari
東西線


デルタ惜しい
賀茂川
鞍馬口
iMievタクシー
今日皇太子さん来はるさかい
チケット事件
ANAクオリティ
阿闍梨餅
またくるぜ京都
京都タワーの郷愁

October 13, 2010

東京雑感

あと、国立新美術館でゴッホ展も見たんだけど、割愛。今日はよく書いた。

ゴッホだね、やっぱゴッホいいよね、って思ったのだが、開館と同時に入ったため妙に混んでいて、さくさくっと見てしまったのだった。客層も今までの展示と異なり、有名だから友達と遊ぶついでに来たみたいなちょっときゃぴきゃぴしたおばさん達とか、学芸員にやたら話しかけている薀蓄な人もいて、なんだかがやがやとしていて。
ゴッホだけでなく、ゴッホが影響を受けた画家の絵も一緒に時系列に沿って展示してあり、非常にわかりやすい。並べると、影響を受けているのがよくわかる。
でも、どっちかというと、同じ場所でやってた「陰影礼讃」という展示の方を見ればよかったと後で後悔。




東京へ行っていたのは7日間で、時間を惜しんで動いていた。

初日から圧倒され、2日目には馴染み、それでも圧倒的な情報量を処理しきれていないことを感じつつもその渦から一掴みずつ何かを掴んだ気になっては頭にメモを残す日々。
思った通りだったこともあり、思いもかけなかったこともあり、東京に8年近くいたのに何を見ていたのだろうということもあり。

共有できることがあり、共有できないことがあり。
共有できるということのよろこび。できないことのさびしさ。
できてしまった距離感。変わらない距離感。
ああ、そういえば、以前お付き合いしていた人に会っても動揺をしなくなっていて。もう大丈夫だと思えたのは大きかった。少しさびしい気はしたけど。

そうして自分の不甲斐なさをひしひし感じ、しかし自分で立ってそこに在るということの確かな実感もあり。知識も肩書も家も何にも持っていないけど、身一つがある。それだけで人と話ができたり、ちゃんと感動したりできる。
ちゃんとしたいなあと思った。なんだろう、東京の人たちって真面目だ。なんだかんだで。東京の人たちみたいにちゃんとしたいわけではないけれど。私なりにちゃんとしたい。

ちゃんと友達と友達のままでいられている安心感。

沖縄の良さが「全体的なあったかさ」だったら、東京のよさは「寒い中時折触れるぬくもり」みたいなもんだな、と思う。
そして、私は直感的に、常に人生があったかいなんてありえないと思っているので、東京の方が本当っぽいというか、むしろあったかくすら感じてしまうこともある。

お酒はほとんど飲まなかった(我ながら偉い)。コーヒーをよく飲んだ。
江國香織の小説に憧れて、ウインナコーヒーを飲んでみたけれど、冷たいクリームと温かいコーヒーが同時に触れて気持ちいい、なんてことはなく、普通にコーヒーが熱くてでもクリームが邪魔で冷めなくて、どんどんクリームは溶けていってしまうし、そんないいものではなかった。あるいは、もっとコーヒーの温度を下げてから出してくれたらよかったのかもしれない。

ジャズ喫茶にも行けた。
思えば結構な頻度でジャズを聴いてた。あの圧倒的な大音量がいい。言葉は、いらない。

で、台場は至福。やはり。
まぶしくて、あったかくて、ねむたくて。静かで、波のゆらめきと風のそよぎがどんな動物だって目を細めるだろうというくらい心地よい。空。芝生。

で、結局、一番行ってたのは六本木かもしれない。美術館が集まってるからか。街としてはそんなに好きじゃあないけれど、ミッドタウンは結構好きなのだ。建物の人工的なやさしさが。さすが三井不動産!

今Telefon tel aviv聴きながら書いてるんだけど、もうこの時点で郷愁。


あ、今週末ちょっと京都行きます、所用で。
家族一緒なのでお会いしたい方々には会えないかもなあと思いつつ。

October 12, 2010

ICC OPEN SPACE2010

3つ目。
初台にある東京オペラシティの4Fに、NTTインターコミュニケーション・センター(ICC)がある。オープンスペースにはいろいろ展示があって、入場は無料。
ICC OPEN SPACE 2010

展示の中にはずっと前からあるやつもあって、まあジャグラーとかマシュマロスコープはいいとして。
お気に入りは
《10番目の感傷(点・線・面)》クワクボリョウタ
リンク先飛んでもらえれば大体どんな作品かわかるのだけど。
よい。とてもよい。楽しい。わかりやすいし。



《for maria anechoic room version》渋谷慶一郎+evala
相対性理論とやって以来なんだか気になる渋谷さん。
音響系というかガリガリのノイズ系は全然聴いていなかったのだけど。
もともと展示として無響室そのものには入ったことがあるのだけど、なんだろう、一番近いのは水中だろうか。音が反射しない空間。圧迫感。耳の中まで空気がみっしり埋めている感覚。不安。
そこで展示されていたのがこの渋谷さん+evalaさんの作品。

結構注意が多い(内容が刺激的なので)ので、ちょっとおっかなびっくり。
無響室の中心にひとり立たされ、係の人が出ていく。暗転。
目の前の緊急停止ボタンが青くほのかに光るのみ。ちなみに中の様子は外で一応係の人が確認している。

ノイズ慣れしていない体には大きな衝撃。
視覚を驚かす光。
自分のすぐそばを「なにか」が飛び回り、自分がなにかに脅かされているという危機感や焦りだけはあるのだが、為す術はない。それは実体のない「音」だから。で、必死の抵抗をやめたときにくるあの周囲との一体感というか。浮遊感というよりはもっと濃密な。
少し、ジェットコースターに似ている。落ちるとき、重力が無くなった感覚に焦るけど、もういいや、と身を任せたときになぜかふわっと心地いいという。あれの音版というか。
だんだん終わりが近づくのがわかり、頭の後ろがしびれ、いつの間にやら終わるのが惜しいと思っている自分に驚く。余韻。

明るくなって、沸々と、おかしさがこみ上げるのもまたジェットコースター的。

いい体験させてもらった。


emargencies!を見逃したのは不覚。
ビスケット・ラボでお絵かきして帰る。

それにしてもオペラシティというところは晴れの日も雨の日も、すごく気持ちがいい。
クラシックコンサートなどもある。まあオペラシティだもんね。
ギャラリーショップでかかっていた
Ok Bamboo/Shuta Hasunuma
を衝動買い。

SENSING NATURE―ネイチャーセンス展

展示レビュー二個目。
ネイチャー・センス展@森美術館。

どういう展示かというと、面倒なので展覧会概要より抜粋。

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温帯性の気候や島国の複雑な地形によって、我が国では独自の自然環境が育まれ、それは古来の宇宙観や宗教観とも繋がって、この国で生まれる文化や芸術に少なからぬ影響を与えてきました。「ネイチャー・センス展:吉岡徳仁、篠田太郎、栗林 隆」では、都市化、近代化の進んだ現代生活において、自然を知覚する潜在的な力(ネイチャー・センス)や日本の自然観について考え、それが現代の美術やデザインにどのように活かされているのかを問いかけます。
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ちなみに、ここのレビューについては、ここが本当に丁寧にくみ取ってらっしゃる。

で。

・篠田太郎「残響」




これは本当にずっと見ていたい作品で。
3つのでかいスクリーンをほぼ三角形に配置してあり、どこかの駐車場や動物園のバク、奥多摩のダム、都内の川を下る風景、などを定点観測した映像が各スクリーン、数分ごとに移り変わる。その風景というのは、確かに見慣れた光景で。特に珍しい映像というわけでなく。特に名所というわけでも花がきれいというわけでもなくて。主役というか、フォーカスすべきものが特にないというか、まあバクに関してはバクに目が行くけれど、でもバクが何かするわけではなく、ただ歩きまわっていたり立ち止まっていたり。

その特に劇的な変化があるわけではない映像を、でもなんとなくずっと見ていたくなってしまう。
見ていると、てらてら光る駐車場の地面が雨に濡れていることを発見し、その蛍光灯の反射のものがなしさを感じ、奥行きのありすぎる吹き抜けのその駐車するというだけの空間にある種の解放感を感じ。なんでこんなに自由な感じがするのだろうと思い。雨の匂いや車のタイヤが濡れた地面を踏みしめていく音まで聞こえてくるような気がするから不思議である。
たとえばそういうこと。

そこで、はたと、「ネイチャー」センス展であるということに思い至る。
これはネイチャーなのか?
あくまで人工物ばかりを映し出している。
でも、ああこれがネイチャーなのだなと、思う。人工だとかそうでないとか、ではなく。それらがすべて自然なのだよなと。対立軸ではなく。駐車場を、光が照らし、水がしたたり、人間が歩き、風が吹き抜ける。それらはどこから自然でどこから人工だというような切り分けをされることなく、私たちの周囲に、まさに「自然に」そこにあり。その中で生きて感じているのだなあと。それが違和感なく、むしろ地味に調和しているのが、日本人のネイチャー・センスなのだと、いうような気がした。


で、そっとそのスクリーン裏にある展示を見に行くと、真っ白ながけから真っ赤な液体があふれ出ているその衝撃。どうしても血液しか連想できない。
「忘却の模型」
作者の意図するところは理解していないけれど、自分の、あるいは他人の身を切ったらこういう赤い赤い液体があふれてくるのだというその生々しさは、普段結構忘れている。
そんな平和。そんな感覚。


他もいろいろあったけど、私はこの「残響」が好きでした。
割と大きな作品が多かったからか、いつもよりすぐに見終わってしまったようなイメージ。
inoの言うように、1500円払って見る価値があるかと言われたらうーんと思う、私も。ただあれ東京シティビューとの抱き合わせ販売なので、まあシティビューを楽しめるならいいのではないかと。
シティビューは夜がいいね、断然。22時以降は人もいなくなるし。まあ平日の昼行ったら修学旅行生と外国人とお着物のおばさまたちとカップル、って感じでした。光景的にはちょうど雲間から光が射して、海っぽくてよかった。



このあとに
MAMプロジェクト021:トロマラマ
もあって、これはまあ、ふうんて感じ。映像は、うんすごいけど。歌がどうやらインドネシアの人たちらしい。爆音で聴いてたら結構よく聴こえて一応チェック。そもそもインドネシアの音楽ってどういうのかまったくイメージが無い。ガムラン?て感じだ。いやガムラン好きだけど。
RNRM(Rock n' Roll Mafia)/zsa zsa zsu


この展示を見た後、つい散策中に、首都高が上を走る川の水面を凝視してしまったのはいうまでもなく。

October 10, 2010

夜はやさしい

日本科学未来館のプラネタリウム番組「夜はやさしい」を観た。ずっとずっと観たかったのだ。

前回谷川俊太郎が参加した「暗やみの色」の時に、彼がすでに原田郁子に構想を話していたが、それがプログラムとして実現した形。
頭上に広がるは世界各地の夜空、流れるのはその各地の夜の音。喧噪や、波の音や、祭りの音楽。そして谷川俊太郎の詩を朗読するのは麻生久美子のすきっとした声。


たとえば今、インドネシアはバリのガムランにまどろむような。

今、オーストラリアはアーネムランドの舟の上で水の音とディジュリドゥを聴くような。

今、ドイツはミュンヘンの安宿であかるい喧噪を楽しんでいるような。

それがある人々の日常の音であって。


それは確かにやさしかった。
音がよくて、詩をじっくり集中して聞くことができなかったのが心残りと言えば心残り。


しかしこのプログラムに出てくる音というのは、例えば祭りの音であったとしても、メロディのようなものが無くて。
聴こえるのは打楽器や吹く楽器の音なのだけど(木管かな)、とにかく音を出すというだけのものすごくプリミティブなものばかりで。どうしてかしらとぼんやり思っていた。
メロディの否定、だろうか。
私が今メロディのない音楽をプリミティブと言ってしまったように、メロディのある方が、巧みな方がより技巧的というか、進歩的というか、そういう意識のようなものがある。でも、最近自分自身、メロディの無いものに惹かれつつあり。むしろ規則正しいテンポすら、無くても良くて。
ある意味作りすぎていない音だけの世界とか。メロディに依存しない、大衆に媚びない清々しさというか。
(まあメロディアスなものも結局好きは好きなんだけど。)

そういう意味で、そのままの宇宙的夜空には、合ってたなあという音たちだった。
最後には麻生久美子が歌うのだけど。メロディあるのだけど。

すごくリラックスできる。
終わった後ふわふわしてしまった。

ちょっとメモとして。アボリジニの楽器、ディジュリドゥの音が結構好き。
ほら貝のような。胸の底に響くような、獣の唸りのような低い音。


ちなみに、10/13(水)~11/19(金)の間は改修のため見られないそうなので。

October 8, 2010

2010.10@TOKYO

東京に行っていた。
メモ。

羽田
圧倒

景色によって記憶が押し寄せる
言葉の国
要素
空間への人為のつめこみ
おそろしく懐かしい

結婚式
帝国ホテル
ふかふか
再会
郷愁
日常と祝祭
銀座
カフェ
ガールズトーク
新人
神楽坂
気が付けばGA
セクハラ

ゆりかもめ
ジオ・コスモス
「僕の素粒子を感じてください」
夜はやさしい
よるのおと
打楽器のリズム
メロディの排除
喧噪と水音
みんなの上に夜が来る
学食
きりん
UFO
21_21
金魚
デスクトップ
moonとスマブラ
人工の安心
人がいない疎外感のなさ

早稲田
うるとら
125
和歌山
秋葉原
「君はいつまで沖縄にいるの」
ミッドタウン
きらきら有楽町
スペインオムレツ

ICC
渋谷+evala
クワクボリョウタ「10番目の感傷」
ビスケット・ラボ
ネイチャー・センス展
篠田太郎「残響」
R.N.R.M
葉書
月のアリス
ウインナコーヒー
ジョナ
やる気のなさを表現したキャラメルアイス

迷子
偶然の雑貨屋
ののちゃん
ベーグル
銀座松屋
あ、モデルの人
AKB
金魚(2回目)
スタバ
工事
発光都市

国立新
ゴッホ
うん、ゴッホだ
客層の違い
餃子
ジャズ
しなやかさ