January 19, 2011

違和感

すぐれて作者の独立した文学作品を読んだり、世界の底の底の方を流れるものを汲み取ったような音楽を聴いたりすると、今やっていることがすごくチープなものに思えてくる。

たとえば村上春樹が小説の中でスパゲッティを茹でているところを描写していても、その一節を読んでふと自分の手元に書き付けたメモを見ると、そのメモが非常に安っぽいものに見える。ばかばかしく思える。小説の中で「いかにもありそうな」メモとして主人公が一瞥をくれて「やれやれ」と言うに決まっているように思える。


生活を営むということはものすごく細かくて極めて現実的な(でもあまりにfictionalな)作業の積み重ねで、そういうことに我々は気づくけど気づかないふりをしたりそれを諦めたりしながら生きてる気がする。
それを指摘したからといって生活をし続けることに変わりはないのだし、それを斜に構えて見るよりはまっすぐに見た方がストレスは軽減されるかもしれない。
でも軽減されない、むしろ増大する人も勿論いるわけであって、私はそっちの方だなと思う。
そしてそれを、生活から離れたひとつの独立した視点からメタに語るのがそういった文学作品であり音楽作品であると思う。
そういう意味で彼彼女らはとても孤独に見える。メタな視点で語ることはもうすでに違う場所から世界を見ているということだと思う。


たとえば何かをすることに違和感を感じながら、でもみんながそうだからとか、違和感を口に出して言ってしまうとつまはじきにされるとか、そういう理由で口に出さずにじっと耐えるということを、社会生活をする以上はどうしても強いられるのであり。
それでも多分私は、小さい頃からそういう違和感のあることをできるだけ避けながら、でも孤立化することは幸運にも避けられて、狭くても居場所を見つけて生きてきたんだろうなと思う。いやなことはどうしてもいやで、納得のいかないことはどうしても納得がいかなかった。いる場所がそういう風になっていくのなら、立ち去った。
そういう生き方をしていると、どんどん狭くなって、いつか行き詰まるんじゃないかと、もっと我慢したりしなきゃいけないんじゃないかと思ったこともあった。もう大人だし。


でもそういう作品にふれるたび、これでいいんだなと思う。

我々はもっと自由なはずだ。思想や観念からも。



そういえば、こないだ糸井さんがほぼ日でこう書いていた。
 
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 ことばこそ「超能力」なんじゃないか。
 そういうふうに思ったことがあります。
 お遊びみたいなことだけれど、
 ことばで、スプーン曲げだってできます。
 あなたは手も使わないし、
 スプーンに触れさえもしないでね。
 遠くにいる誰かに、スプーンを持ってもらって、
 こちらからことばを送るんです。
 「曲げて!」とね。
 そしたら、かなりの確率でスプーンは曲がります。
 うまく曲がらなかったら、
 「頼むよ」とか「お願い」とか追加のことばを送ります。
 
 「そんなの、あたりまえじゃん、ばからしい」
 そう思われてもしょうがないけれど、
 じっさい、他のどんな方法よりもすごい能力じゃない?
 
 そんなことばを、ぼくが日本の東京のある場所で、
 文字として書き記しているんだけど、
 そのことばが、会ってもいないあなたのこころに、
 なにかを感じさせたり、別のことを考えさせたりしてる。
 ひょっとしたら、明日や明後日よりも、
 ずっと先のあなたの行動にも作用しているかもしれない。
 
 ことばが、音の波に乗って遠くまで近くまで行く。
 ことばが、文字のかたちになって、過去や未来まで行く。
 ことばが、人を震わせる。
 ことばが、人を傷つけたり、人を癒したりする。
 
 ことばという超能力以上の超能力のことを、
 ぼくらはもっと信じたり恐れたりしてもいいと思う。
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これ多分、言葉は顕著だけど、音も、写真も、書も、器も、絵も、建築も、彫刻も、多分そうだなと思って。
人に何かを、割と本質的な何かを伝えようとする作品は作者の死んだ後々まで他者に届く。すごいことだ。


で、引用の最後のほう、「言葉を恐れる」ということ。言葉の使い方のうまいやつが、世の中を仕切れるようになっていくというやつ。
糸井さんが以前吉本隆明の言葉を引いて書いていた「沈黙」ということについての考え方。
昔のエントリ「言葉のこと」

子供たちは、大人に比べて言葉を扱うのが上手じゃない。だから、言葉で伝えきれないことがたくさんある。子供たちと接するとそれがわかる。でも、言葉じゃないもので一生懸命伝えようとしてくれていたりする。表情とか、仕草とか、言葉が言葉の本来意味するように使われていないこととかで。そこにあるのはものすごく繊細でピュアなひとつのたましいで、それを蔑ろにすることなんてしちゃいけないと思う。


つまり、最初の話とつなげると、言葉をうまく扱えることや話す内容がすらすら出てくるということが最重要であり、それができるのが最も優れた人間で、できないのが劣った人間であるという価値観に、私は違和感があるし、そうでなければ必要とされない社会なのであれば、そこを立ち去ることになるのかもしれないと思ったよ、ということ。

January 18, 2011

memo

くもる
視界
色彩
ひととひとと

てざわり
ぬくもり

January 12, 2011

あかり from it

月が今日は、真っ二つの半分で、この月ってバングラデシュでも見れるんだろうかなんてことを考えたりして。

何にしてもはんぶんこの月。

と、放哉か山頭火かといった風情で考えたところで、あ、月を挟んで向こう側に誰かがいたら、本当に月をはんぶんこしてるんだなあと思う。


夜道を歩くとやたら灯りが目につく。
街灯でも、ビルの中の灯りでも、家の灯りでも。なんてきれいで、なんて安心するんだ光って。
一つ一つの光源が、人のいる場所を照らして。手元足下を照らして。
そしてその一つ一つにまで、電力が行き渡っている驚異。

THE ELECTRICITY IN YOUR HOUSE WANTS TO SING/I am Robot and Proud

電気が歌いたがっている!

で、思い出したけど、小学生の時、社会科の授業で環境問題をやっていて、お話を作ったことがあったなあと思う。「しずく」くんの。(Drippyを知るより前だよ!ってことだけ一応)
「しずく」くんは水道管の奥の方で、自分の出番を今か今かと待っている。ダムから浄水場を経て来た長い旅の末に、何に使われるんだろうと思ってわくわくしている。野菜を洗うのかもしれない、スープになるのかもしれない。そうしてついに蛇口から出た瞬間、しずくくんは何にも使われずにひゅうと排水口へ流れこむ。使っている人が水を出しっ放しにしながらよそ見をしていたから。
失意のうちに彼は下水処理場へ運ばれ、海へ流れ出る。

水のむだづかいはいけませんよ。


にしても、電気の使い道の中では「光る」っていうのは花形なんじゃないかなあと。電気界の中では。

January 11, 2011

N

何にしても言葉が出てこない。

何かについて語ることはできる。何かについて語れと言われればどうにかこうにか、むしろするすると言葉は出てくるような気さえする。
でもその書きたいと欲望する何かが出てこない。
自分の心の動きを仔細に観察して、つまりスキャニングして、その小さな違いに気づいたところでso what?ってなる。
多分言葉にするかしないか(できるかできないか)というのは、そこでso what?と思うか、そうは思わずにどんどん書いちゃおうと思うかどうかというその時の気分の波によるのかもしれない。

物事は他のものの相対としてしかとらえられない、とか昔書いたけれど。真偽はともかく。
今と昔を比べてもいいし、昨日と今日を比べてもいいし、音楽と絵画を比べてもいい。そこには絶対に何かを捉えられる。比べるという行為自体がその複数の事柄の「違い」を前提として行われる行為なのだから。その違いをとりだして眺め回してあれこれ言うことはできる。
そうやって書くことをひねりだすことはできる。

でももともとso what?って思っちゃってることを書いたって仕方が無い。
そういうのがすごく苦手だからこそ、つまり自分を乖離させたくないからこそ、私はいまここにこんな風にぽつりと立っているのだ。途方にくれて。
so what?って思ってる事をそれに気づきながら我慢してやりつづけるというのに堪え性が無い。Rollin' Rollin'

「ぼくを探しに」という絵本があった。パックマンみたいな簡単な絵の「ぼく」が、足りないかけらを探して転がる話。
転がってるのかなー。
そこらへんに落ちてるかけらを飲み込んで、ときたまぶつかって欠けて、砕けた誰かの破片が刺さったり。
何重にも層になって、グラデーションを描いていたり急に色が変わったりしながら、質感すら変わりながら、結局どんどん肥大して、恒星のように爆発するのかしら。そこはブラックホールになって、そこらの小さな破片を吸い込んでしまうのかしら。


ふむ。
書くことがないっていうことをテーマに書いてしまうくせはなかなか治らんな。

January 9, 2011

つながり方など

Pre-schoolなど。
なんだかんだ好きかもこれ。もう解散してしまったけれど。

誕生日の贈り物を頂いた。ウヰスキー。無色透明なるサントリイウイスキイ!BY太宰
いや透明なそれ飲んだら死んじゃうのだけれども。本当は琥珀色だけれども。
そういうわけで軽はずみに28歳になってしまった。而立の30まであと二年しか無い。


お礼かたがた手紙を書いた。
高校時代から続く、それはもう全くスタイルの変わらない、話し言葉をそのまま文字にしたような、字自体が自分を表しているように表情を持つ、支離滅裂で連想に富んだ、自由気儘な、手紙。
ブログで書く文章はこんなに変遷があるのに(昔の文章とは大分雰囲気も違う)、彼女との手紙だけは全然変わらず。勢い余って書きすぎる。世界史の覚えたての事柄で連想ゲームをしていたのと同じように、近況や小ネタを織りまぜて出産のお祝いを述べていて。
思へば遠く来たもんだ。


なぜだかメールではなく手紙の方が饒舌で。
人と人とのつながり方は多種多様なのだなあと思う。それぞれに適した距離感やテンポに付随して、手段がある。
たとえばツイッターで、たとえばブログを見ていることで、たとえば電話で、たとえば携帯メールで。
そういえばツイッターがミニブログと紹介されていたとき、すごく違和感だったのだが(私の中でのブログはツイッターでの表現方法表現内容とかけ離れていたから)、対「個人」でなく対「場」への発信という意味ではミニブログと言えんこともないなと今思った。

そんなわけで明日投函いたします。
post.
寒中見舞いも出しました。


そして今この文章を締める時にはストラヴィンスキーの「春の祭典」。

January 1, 2011

2011

久々に真面目な文章でも書いてみたい。


年頭です。
旧年中はご高覧賜り、ありがとうございました。今年も宜しくお願いします。


一昨年の大晦日に
「来年の目標は、断酒です。」
と書いてあった。
一滴もお酒を口にしなかったかといえば、それは結局無理だったわけだけど、節酒には成功したと思う。酔っ払うということは去年は1,2回しか無かったんじゃないかしら。
胃を痛めたり、薬を飲んでいて肝臓に負担をかけてることを気にして、お酒を控えていたわけだけど、そもそもお酒は味わうものだなと思うわけで。日常的に飲むよりは、ちゃんと飲みたい。
でも、飲みたいって気分になるときはあるわけで、でも去年酔いたい気分にそんなにならなかったりするのは仕事してなかったのが大きいなと思う。酔いたいのは、反動だ。


去年のことを振り返ってみよう。
自分の中を捜索して、いろいろな思いや考えを発見して、言葉を紡いでいって、そういう作業にもだんだん飽いてきて。
塾のバイトなんかを始めたりして、人とか子供たちと接するということがこんなにうれしいことだったんだなと認識したりして。
どんな些細な仕事でも、人の役に立つということがこんなに充実した気分を生むのだということを認識して。
二年前からいる沖縄の時間の流れに、家族の特別感に、やっと慣れてきて。沖縄の日々が日常になって。
と同時に感じるのは行き止まり感。
10月、友人の結婚式で東京に行けたのは本当に大きかった。あの場所にあの時戻ることで総括出来たのだと思う。


それで、大切な人を見つけたところ。
率直に言うと、この出来事があまりにインパクトで去年の他の出来事を思い出せないほどだった。
あまりにぴったりで、何もかもが安心で、それが伝わって。今までのあらゆることが伏線のようで。
この世界を生きて行くのにこんなに心強くこころたのしいことがあろうか。

信じたいと思いながら、何も信じていなかった。
人が二人でいることが自然なことであるということも、解りあうということが可能だということも、同じものを同じように感じることができるということも。
人は独りで生きるものなのだと思っていた。それが真理であると。
安吾が「恋愛は人生の花だ」といっても、散る花を切なく思うより花のない人生でもいいではないかと。
草食此処に極まれりという風情で。花より団子より草。


これまで考えてきたいろんな人生の道中の苦難のこととか、疲労のこととか、自分という存在の卑小さとか、価値の有無とか、世界のこととか、そういったあちこちで悩み考えていたかたまりが氷解していく。

わからないことだらけ でも安心できるの

っていう詩は中田ヤスタカ名言だと思う。
わからないことだらけで、神様にもなんでですかって問い続けて、自分でも考え続けて、見たことがなきゃ劣等感で、理解できなきゃ不安で仕方なかった。
でも、わからないことばかりでも、大丈夫だ。
ここは本当に大きな自分の中の変化なのだけど、神様はいると確信できた。


「安心安心」
――「鉄コン筋クリート」より


遐(はるか)なる心を持てるものは、遐なる国をこそ慕え。
――夏目漱石「虞美人草」より


そういうわけで、スタンスは若干変わるだろうし、そのせいで問題意識も変わるだろうし、そのために更新頻度も変わるだろうけれど、よろしければ今年も何卒よろしくお願いいたします。