気がつけばニヶ月更新無しであった。
何かとタフな2ヶ月でした。
ついったーなりFBなりで近況などは少しずつ書いていたものの。
一つ大きかったのは、レイ・ハラカミの逝去であった。
これまで有名人の誰かが死んで泣いたことなど無かったのに、ハラカミおじさんの逝去はこたえた。彼の音楽がやさしすぎて、なつかしすぎて、素直に泣けてしまった。ハラカミおじさんのつくる音が好きだった。とても。
最初に聴いたのは、くるりの「ばらの花」リミックス。これは「ワールズエンド・スーパーノヴァ」のB面に収録されていて、くるりもハラカミおじさんも初めて聴いたというごく個人的にエポックメイキングな一枚なのだけど、あたたかな電子音があることを初めて知った曲で。
以下は聴きながらどうぞ。
その後何かの拍子で出かけた未来館のドームシアターガイア、プラネタリウムプログラムの「暗やみの色」が、ハラカミおじさんの曲に触れた二度目の体験で、ああこれは宇宙の音だったのかと思った。
聴いてるだけでわだかまりが溶けて小さくなっていくような、かなしいようなあたたかいような、独りだけど、独りじゃないような、なんかもう全部わかっちゃったような音楽だと思った。
Ustなんかでゆるーい番組を一度だけやって、タブラ奏者のユザーンとのやりとりが面白くて。
これからもたくさん音を作って、誰かの音と絡ませて、たくさんの心を喜ばせるのだと思っていた。
二度と流さないはずだったUstが流れた。未来館ではハラカミおじさんを偲んで「暗やみの色」再上映が9月の間中行われることになった。それで、観に行った。
原田郁子の朗読に、ハラカミおじさんの音に、谷川俊太郎の詩という。
もう諳んじることができそうなくらい、その詩を聴いていたけれど(CDを持っているので)、ハラカミおじさんの逝去にあたってこの詩を聴いていたら涙が出てきた。
『闇は光の母』 作・谷川俊太郎
闇がなければ光はなかった
闇は光の母
光がなければ眼はなかった
眼は光の子ども
眼に見えるものが隠している
眼に見えぬもの
人間は母の胎内の闇から生まれ
ふるさとの闇へと帰ってゆく
つかの間の光によって
世界の限りない美しさを知り
こころとからだにひそむ宇宙を
眼が休む夜に夢見る
いつ始まったのか私たちは
誰が始めたのかすべてを
その謎に迫ろうとして眼は
見えぬものを見るすべてを探る
ダークマター
眼に見えず耳に聞こえず
しかもずっしりと伝わってくる
重々しい気配のようなもの
そこから今もなお
生まれ続けているものがある
闇は無ではない
闇は私たちを愛している
光を孕み光を育む闇の
その愛を恐れてはならない
つかの間の光のなかに、おそらくは闇の中から掴みとったあたたかな音を広げてくれ、そうして闇の元へ還っていったのかしらと。
かなしいというより、さびしい。
この音を作った人が、この音の中へ入り込んでしまって戻ってこなくなった。でもその音を聞けばその人を感じられる。この音がもっと特別になった。
そういう感じ。
泣くのに理由など無いのだ。空の雲を見ていても、風に吹かれていても、泣くことはある。そういう自分の感性を無視しなくたっていい。きっと根源的に、プリミティブな部分で反応しているだけなのだと思う。
泣こうとする必要も、また無い。