November 1, 2011

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「2001年宇宙の旅」を観た。

一度後半部分だけ観ていたのだけれど、途中のすっ飛び方がすごくて別の映画の記憶だと思っていた。
まあとにかく衝撃的で、あらゆる場面で何かを連想するのは、逆にこれを起点にしていろんな作品へあちらこちらでふくらんでいったということなんだろう。
シュルレアリスムであり、オールドファッションであり、新しく、普遍であり、アンビエントであり、クラシックであり、光であり、有であった。
リヒャルト・シュトラウスであり、ドナウであった。

そうして連綿と続く人類の、というか世界の様子を見ていて、つながっているという法則についてふと思った。

私たちは、経験的に、無から有は生まれないと思っている。
何かすごいものがあったら、何から作られているのだろうと考える。元々はどうだったのか、どう加工してこれができたのか。
私達もぽっと出たわけではなくて、別の人間からつながっていろんな加工をされて今ここにある。そういうの、結構忘れているけれど。

よく宇宙の起源という話になって、ビッグバンとかなんとかで誕生したよ、って言うけれど、そもそも最初は無だったっていうアイディアはどこから来るのだろう。というか、そういう批判なしにこのアイディアは割とすんなり容認されているように思う。
無は、実際にはイメージできない。というか、有しか認識できず、有という状態と相対して無があるというような観念が生まれるわけで、本当の無というのを体験はおろか想像もできないはずなのに、一番はじめは無だったのだ、と思うのは何故だろう。


そして、仏教や他の宗教でも、無へ向かうのはなんなんだろう。頭をからっぽにする、とか、無我の境地に達するとか。そしてそれは起源に戻るという意味を持つ気がする。
座標軸でも起点は0だしな。

0を中心にすると収まりがいいのかもしれない。
プラスとマイナス、陰と陽、ネガティブとポジティブ、オフェンシブとディフェンシブ、両極があり、けれど「両極」とは言うもののそれに限界はなくて、いくらでも振れ幅が大きくなってしまう。膨張してしまう。
つまり、ニュートラルな意味としての0。

そしたら、宇宙の反対の極に別の同じだけの宇宙があるのかもしれない。宇宙と呼びうるのかどうかは知らないけれど。∞こういう形っていうもんね、宇宙。

それにしても、始まりが無であるというアイディア。
この世界は、経験則で動いている。いつか新書に「99%は仮説」みたいな本があったけれど。
物から手を離したら下に落ちる、とか、物体を早く動かすと空気抵抗が生まれて浮力が生じる、とか。これは、「なんでそうなるか」ということではなくて、「そういうもんだから」という理由しかない。引力があるから、地球の核に質量の大きいものがあるから、とかいう理由はあれど、なぜ質量が大きいと重力が生じるのか、とか、つきつめていけば「そういうもんだから」としか言いようがないし、それ以上言う必要もそんなにない。

なぜ私はここに在るのか、とか、そういった話もまた同じで。
なぜ今此処にこの細胞の集合体であるところの私が存在するのか、どのような法則でここにこうして組織化されて一個体としての活動を営めているのか。
詳しいやり方は知らないけれど、なんかお腹すいたら食べて、眠くなったら寝て、起きてる時は動いてたら、何年間もこの細胞の集合体を維持できたなぁ、そういうもんなんだなぁ、っていう。

宮沢賢治が、「疾中」という詩の中でこう書いている。

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われやがて死なん
  今日又は明日
あたらしくまたわれとは何かを考へる
われとは畢竟法則の外の何でもない
  からだは骨や血や肉や
  それらは結局さまざまの分子で
  幾十種かの原子の結合
  原子は結局真空の一体
  外界もまたしかり
われわが身と外界とをしかく感じ
これらの物質諸種に働く
その法則をわれと云ふ
われ死して真空に帰するや
ふたゝびわれと感ずるや
ともにそこにあるのは一の法則のみ
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法則というものが確かにあるのである。それを経験によって知った場合に経験則というのである。

伊坂幸太郎の「陽気なギャングが地球を回す」では、登場人物の息子が自閉症で、それについて語られるシーンがちょいちょいある。
曰く、その子(タカシ君という)は、法則をうまく理解できないのだ、と。それで、人が覚えないような数字とか犬の種類とか、そういうものだけを抽出し、その中から法則をなんとか見つけて安心しようとしているのではないかと。

ふうん、と思う。

また散らかして。

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