June 24, 2012

若さ(bottleneck)

ひょんなことで、昔のブログを読み返した。
ちなみにこのブログの適当な場所に「思い出」として貼ってある。
文体や状態は随分変わった気がする。ただ、紛れもなく私である。

先日、ダッカから友人が一時帰国した。
それを機に、普段会っていない院の友人たちとも集まったりして。
有楽町での最近どうなの的女子会的イタリアン飲みからの、ゲストがラストオーダー後に到着的事情による高架下・道路にテーブルの割に高めの店的二次会にて、例のごとく一周回ってるとか回ってないとか螺旋とかの抽象的会話をクラウド的に浮かべつつ。

みんな院の頃と変わらないようで、でも決定的に違うんだろうなとも思う。
うれしいのやら寂しいのやら安心したのやらわからないけれど、なんだか泣きたい気持ちになって、それで帰り道にアジカンを聴いてしまったわけだ。


最近わかってきたことは、年齢が若いということによるハンデは、ものすごくあるということだ。
これは経験が無いということではない。
ただ「若い」というだけで、その人自身が見えない力でかなり抑圧されているということだ。

数年前の私と今の私では、まず見えてる範囲が違う。
時間によって醸成された自信の層の厚さが違う(まあ今もそんなに厚くはない)。
度胸が違う(昔はBig issueをホームレスの人から買えなかったし、所謂おじさんばかりの蕎麦屋にも一人で入れなかった)。
見えてる範囲の話とかぶるけれど、着地点の見定め方が違う(若いと、どこに着地していいのかわからない。あまりに浅いところに着地してしまったら勿体無い気がするけれど、深いところは見えすらしない。むしろ、どっちが浅くて深いのかわからない場合もままある)。

院にいたころ、本当は全然そんなことないのに、みんな横並びかのように扱われていた。
その中で何もわからないことに悩んだ。できないことを年齢や経験のせいにしたくなかった。
今考えれば、できなかったのは全然普通のことだと思う。
まあその年齢や経験の格差をセンスでカバーする同級生はいただろうけど。

仕事をはじめてから、仕事ができる先輩や上司を見て落ち込んだり焦りそうになると、年齢のことを考えるようになった。
この人が今3個年上なのなら、3年後までにこの人レベルになってればいい、と思うように。
で、3年あれば越えるわそんなもん、と強気に思う。実はそういう性格なのである。

このタイミングでこういうのを書いたのは、同期に触発されて少なからず私の無駄に高いプライドが頭をもたげてきたからだが、ここでぐっとセーブするのが大人と心得たり。
衝動にかられると無駄に決断力を発揮するので、プライドにまかせて走り出したらまた骨折してしまう。持続可能な人生を。


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