December 20, 2014

じっと手を見る

できることとできないことがあるのはその通りだとして、でもそれを分ける線はいつも流動的だと覚えていたいと、思った。

できないことは今できないけど、いつかできるかもしれない。ひとりではできないかもしれないけど、二人や三人やあるいは十人ならできるかもしれない。

自分がどういう風に生きていきたいのか、最近よく考える。
今の生活がしあわせだと思う。でも、少し停滞している。そして、自分だけしあわせでいいのかとも思う。
ただ、今自分の体力的リソースを割とギリギリで回しているとも思う。
(タイムリーにも最近2人の別々の女性の先輩から、体力をつけることの大事さを示されたところだ。)

自分が立っている場所は、多分今立っていていい場所なのだと思うけど、立っているべき場所なのかはよくわからない。
人はひとところにずっと立っていられるわけではないし、最近手相を見られた結果、波瀾万丈な運命線が濃いとの指摘なのだし、誰しもいずれは歩かざるを得ないわけだけど。
そういう風が吹くときは、そういうふうになるんだろう。

昨日ある人の肩に右手を置いて、その人の人生を思って、神様のことを考えた。
帰る道々、何度か右手を見た。
肩に手を置くことしかできなかったし、もしかしたら手を置くことすらできなかったかもしれない。
でも沖縄にいた頃より、私の手は割としっかりした手になっていると思った。

September 29, 2014

南風を待ってる

最近、というか結構前だけど(もうおとなになったから、ここ2,3年以内のことは最近と言っていいのだろうと思う)、いいともが終わった。生きていれば、いろいろなものが終わるのだ。
で、その終わり間際のテレフォンショッキングで、オザケンが出ていた回というのは某tubeとかに上がっていて、SNSでも結構シェアされたりしていて、案の定私も見て。
いくつかの曲を弾き語って、やっぱり年取った分声はふらふらしていたのだけど、「さよならなんて云えないよ」の「左へカーブを曲がると光る海が見えてくる」っていうくだりを、タモリが「やっぱりいいねぇ」って言うわけで。

この後に続く歌詞は、「僕は思う! この瞬間は続くと! いつまでも」である。
でも、そう思うのは、「本当はわかってる 二度と戻らない美しい日にいると」、だからなのであり、本当にその美しい日の只中にいてそれを理解しているという事態は、私には(少なくとも大学時代には)無かった。だから私は多分しあわせだったのだろうと思う。
この曲はとても好きだ。その美しい日への、美しい日に一緒にいた人々への愛おしさがきらきらしている。




そう考えて、東京事変の「閃光少女」を思い出す。
「今日現在を最高値で通過していこうよ」
日々成長しているとか、そういうことではないのだけれど、私は多分毎日割と楽しくて、今に基本的にはいつも満足していて、そして昨日のことを思い出さない。
過去にあった何かの事柄をポイントで思い出すことはあったとしても(例えば昨日のご飯とか、昨日もらったメールとか)、昨日という日一日全体を思い出したりはしない。し、一日を総括したりもしない。だから家族の年始の挨拶の際、どんな一年だったかを一生懸命思い出す。
多分私は単純(「単純」と書いて「しあわせ」と読む)なのだろうと思う。



でも、それでも「さよならなんて云えないよ」を聴くと、人並みに切なくはなるのである。

高校時代、全校でのワックスがけの日に、3階の外にある渡り廊下の柵の上で足をブラブラさせながら数人でアイスを頬張っていた時だとか、ジャージを着てテニスラケットを持って運動場へ出て行く時だとか、放課後CHARAを聴きながらチャート式を枕に教室の窓辺で木の葉っぱの揺れるのを見ている時だとか、そういう時には確かに、二度と戻らない美しい日にいるのではないかと思っていた。
もう10年以上も前のことだ。

「私は今、二度とは戻れない美しい日にいるのではないか」と思えるほどの、日々に対する、もしくは人生に対する丁寧さというのは加速度的に失われていっているのかもしれない。

July 12, 2014

Re:

ブログ書かなくなったなーと思って、なんでだろうなーと思って、多分いくつかの原因はあるのだけれど、一つには自分のデスクに向かわないからだな、と思った。
リビングの居心地がいいのと、MacBookもリビングに置いてあったので、膝の上に乗っけたりして使っていたのだが、いかんせん膝の上だと長い文章を打つ気にならず、軽いブラウジングやiTunesへのリッピングや写真管理くらいにしか使わないようになってしまっていたのでした。

その反省を踏まえて、デスクへ移動してみたら、MacBook使うために割とデスクに来るようになり、長い文章も打つことができるようになりましたとさ。

もう少しブログ書きたいよね。やっぱり。
この思いつくままにタイピングしていく気持ちよさ。
職場でメール打ったりなんだりでタイピングはするけれど、思いつくままにキーを叩く、思考と連動したタッチと小気味良いカシャカシャ音。


で、ブログを書くとする。
最近来し方を振り返る、というのが多いような気がする。
東京に職場が移ったからというのは大いに関係している気がする。以前住んでいた場所へニシカワ君と行ってみたり、仕事で大学へ行く機会があったり。そもそも職場自体も、院の同期がたくさんいるし来るので当然といえば当然なのだけど。

この10年くらいで結構いろんなことがあって、10年分年をとって、多分10年分大人になった。
10年前は院に入った年で、あの頃は過度に何かを怖がっていたし、逆に恐れるべきが何かを知らなかった。青春らしきものが学部より少し濃い形で続き、制度というか気運というか大きな流れのようなものに巻き込まれていた。何かの差で私は最終的にはその本流からは外れたけれど、今多分支流の支流くらいの位置にはいて、その流れというものが何だったのかを今になってやっと確認できる、みたいな感じだ。母が、私が高校生のころ、言っていた言葉を思い出す。「今、目の前に靄がかかっているような、混沌とした感じでしょう?将来って言われても、なんだかよく見えないでしょう?でも、年をとるとだんだん見えてくるんだよ。お母さんはこの歳になって初めてわかったこともいっぱいあるんだよ。」

靄の中を揉まれ流されていたわけだけど、いずれにしてもそうなるしかなかったし、それでよかったなと思う。
人によるとは思うのだけど、自分でコントロールできることというのは私にはほとんど無いなと思う。なるようになるし、なるようにしかならない。ならないものを、そう「する」ことはできない。

そうしてなるようになった結果、いまここ。
そして、今まで生きてきた31年間(もう31年も生きているなんて驚きだ)、概ね幸せだったということは本当に感謝すべきことである。苦しいことがあっても、それに耐えうる助けがあった。


しかし私はまったく、新しいことを書かないな。
振り返ることばかり好きだ。今のこの時点が過去の積み重ねであることを確認することによってしか、今が成り立っていないと考えているからかもしれないし、単純にその方が今のこの風景を切り取るだけより若干の深みみたいなものが出ると思っているのかもしれない。
私が今を風景として切り取ると、
通勤がそこそこ大変で、職場もいろいろあるけどまあ総じて楽しくはやっていて、ニシカワ君とも仲良くマリオカートをしていて、今日のごはんは鯖のみぞれ煮にしようと思ってる、
みたいになる。

今後はちゃんと書いていきたいなーというエントリでした。

May 19, 2014

1年

沖縄に行ってきた。
母が亡くなってちょうど1年経つ。キリスト教だと一周忌とは言わないのだけれど、一周年の記念会というのをやった。
お墓もできたので納骨式も同じタイミングで行った。

仕事を終えて、急いで電車に乗り羽田に向かって、羽田まで来てくれていたニシカワ君と合流し夕飯を食べ、では行ってきますと私が言い、行ってらっしゃい、俺は会社に戻りますとニシカワ君が言い、そうしてANAの最終便に飛び乗って沖縄に着いたのは23時だった。
飛行機を降りるなり湿気による熱っぽい空気が腕の辺りにむわっとまとわりつき、薄手のニットを着ていた私は袖をまくり上げずにおれない。
荷物をとってモノレールに向かうべく建物の外にでると、さらにものすごい湿気が肌に貼り付く。薄い膜がペタリとまくった腕に。我が故郷はこんなにも湿ったところだっけか、と思わず笑う。
最寄り駅的な駅につくと、Tシャツを着た妹達が迎えに来てくれていて、今日の湿度は95%なのだと教えてくれた。

家に帰って、お土産諸々を渡して、お茶を淹れて少し話して、翌日に備えて眠った。
家について、「ああ実家の匂いだ」と思うのとほぼ同時に、母の遺影とその両脇の生花と母の友人からのアレンジメントが目に入り、その花の香りがちょうど1年前の一連のことを一瞬で呼び起こした。あの一連の、母に化粧をして棺に入れて花でいっぱいに囲んで火葬して、そのあと部屋に遺骨を置きその両脇に花を飾って献花してもらって、 たくさんの人に慰めの言葉をかけてもらい、その一つ一つに答えながら気を紛らわし、ふとした拍子に泣きだしていたあの日々のこと。

記念会の日は曇っていて、今にも泣き出しそうではあったが、記念会の間は持ちこたえていた。母の好きだった賛美歌を歌い、祈り、この1年のことなどを話したりして、納骨のためにお墓のある場所へ移動するという段になって雨が降りだした。母の亡くなった次の日の前夜式も、告別式もそういえば雨だった。お墓の前にテントを張って、納骨式を終えた。父はこの一年、お墓のことをとても気にしていた。お墓に納骨できてほっとしていたし、そして今やっぱり寂しいと思う。
帰宅してからも来客は続き、結局21時頃まで対応していた。母の教え子や父の職場の人。少し喋りすぎるきらいのある叔母が食事の仕度をしてくれて、久しぶりに皆で食卓を囲んだ。母の不在には少し慣れたような気がしている。

次の日は妹夫婦が帰る日で、その前にちゃんと晴れた日のお墓を見ようということで改めて行き、その後海へ行った。海は相変わらず青くて、水平線は相変わらず真っ直ぐで、日差しは相変わらず痛いほど強く眩しく、私は相変わらず死ぬときはここがいいと思った。

至極当たり前のことだけれど、ある一人の人の死というのは、誰にとっても同じではありえない、と思う。
私が母を亡くすことと、別の人がその人の母を亡くすことは全く違う。
あえて言うなら、私の妹が母を亡くすこととも若干違う。
もちろん相似はある。共感もある。でも同じではありえない。
私が母を亡くした衝撃や悲しさを絶対に共有できない人もいる。

母とはまた天国で会える、と思っている。それは周りのクリスチャンは皆そう信じている。でも、それである程度悲しみを軽減できるかどうかというのは人それぞれだし、それはそれぞれのペースを尊重するべきだと思っている。

今回の帰省にニシカワ君が一緒ではなかったことも大きいのかもしれないけれど、ああ、本当に実家に帰っても母はいないんだ、と思った。二人実家に残っている父と妹がどんな気持ちでこの一年を過ごしたのか考えるのが苦しかった。

帰りの飛行機で離陸する時、少し泣いた。


March 22, 2014

定期的に見る

No.1/tofubeats



March 20, 2014

HARU

ひさびさ。

春になった。
それは誰にでも分かるくらい圧倒的な春の気配で。

地球の地軸は相変わらず傾いていて、地球自身も相変わらず公転しているので、そうである限り、日本に春は必ずやってくるし、それなら気づかないうちに春になっていてもおかしくないくらい四季の移り変わりはシームレスであると思うのだけど、つまりいきなり地軸が大きく傾いたりいきなり公転の速度が速くなったりはしていないと思うのだけど、それでも感覚で、あゝ今日から春だ、と思う日はある。ちなみに花粉については感受しない。


春だからではないけど、職場が変わった。
基礎からいろいろ教えてもらって社会復帰みたいなことをさせてもらえた職場から、院の同期やその仲間たちがやっている事務所へ移動し、とはいえ寂しさも、勿論緊張もあったしもやもやすることもまああるにはあるのだけど、比較的スムーズに移動しつつあるのではないかと思う。


3年経ったら中学や高校を卒業するように、3年経ったら違うことになっている、 という思想というのかジンクスのようなものは、割と気になっていた。
小学校は6年だけど、とりあえず転校したので5年だったし、そのあとは全て3年間で環境が変わって院まで卒業していて、3年というスパンは短いようでいて結構激しく変化する時間でもあるような気がする。でも自分の3年前を見て面白がることはできても、自分の3年後を描くことはやっぱり不得手である。描いてしまったら、自分で自分の未来を規定してしまうような予感がして、すぐにやめてしまうし、それをさせようとする就活的自己分析に反発があった。
結局のところ私は何を探しているのだろうと思う。


で、職場が横浜から都内になった。
都内というのはとても特殊なところだと思う。東京には、「一人でやっている感じ」というのがあって、初めて上京して入学式までいてくれた母が実家へ帰ってしまった後の春の匂いとか、冬が近づいて沖縄では感じたことのない冷たい澄んだ空気の匂いにふるさとを思いやったこととか、多分主に一年目に初めて感じた匂いと感情がリンクしているのだと思う。でも、横浜にいるとそういう感情は出て来ない。
実際東京の匂いと横浜の匂いが客観的に違うというのもあると思うし、あとは東京の景色や雰囲気がそうさせるのだと思う。一人で歩いている人が多いからそう思うのかもしれない。


なぜだかいろんなことを思い出す。今までの31年間でも結構いろんなことがあった人生だったなと思う。まだ生きるつもりでいるけど、どこで「あがり」になるのかは私達にはわからない。

そこにいるのが当たり前だった場所はするするといつの間にか流れ去っていて、もう二度とは戻れない。
いつかながいさんが、卒業して数年後に、院の建物の、いつも雑談してた3階のラウンジにその時と同じ服を着て集まろうよ、みたいなことを今は遺物と化しつつある某みくしーでコメントしてくれていたけど、たまにそのことを思い出して、 ながいさんは覚えてるのかなと思ったりする。

そろそろお台場だな。