September 29, 2014

南風を待ってる

最近、というか結構前だけど(もうおとなになったから、ここ2,3年以内のことは最近と言っていいのだろうと思う)、いいともが終わった。生きていれば、いろいろなものが終わるのだ。
で、その終わり間際のテレフォンショッキングで、オザケンが出ていた回というのは某tubeとかに上がっていて、SNSでも結構シェアされたりしていて、案の定私も見て。
いくつかの曲を弾き語って、やっぱり年取った分声はふらふらしていたのだけど、「さよならなんて云えないよ」の「左へカーブを曲がると光る海が見えてくる」っていうくだりを、タモリが「やっぱりいいねぇ」って言うわけで。

この後に続く歌詞は、「僕は思う! この瞬間は続くと! いつまでも」である。
でも、そう思うのは、「本当はわかってる 二度と戻らない美しい日にいると」、だからなのであり、本当にその美しい日の只中にいてそれを理解しているという事態は、私には(少なくとも大学時代には)無かった。だから私は多分しあわせだったのだろうと思う。
この曲はとても好きだ。その美しい日への、美しい日に一緒にいた人々への愛おしさがきらきらしている。




そう考えて、東京事変の「閃光少女」を思い出す。
「今日現在を最高値で通過していこうよ」
日々成長しているとか、そういうことではないのだけれど、私は多分毎日割と楽しくて、今に基本的にはいつも満足していて、そして昨日のことを思い出さない。
過去にあった何かの事柄をポイントで思い出すことはあったとしても(例えば昨日のご飯とか、昨日もらったメールとか)、昨日という日一日全体を思い出したりはしない。し、一日を総括したりもしない。だから家族の年始の挨拶の際、どんな一年だったかを一生懸命思い出す。
多分私は単純(「単純」と書いて「しあわせ」と読む)なのだろうと思う。



でも、それでも「さよならなんて云えないよ」を聴くと、人並みに切なくはなるのである。

高校時代、全校でのワックスがけの日に、3階の外にある渡り廊下の柵の上で足をブラブラさせながら数人でアイスを頬張っていた時だとか、ジャージを着てテニスラケットを持って運動場へ出て行く時だとか、放課後CHARAを聴きながらチャート式を枕に教室の窓辺で木の葉っぱの揺れるのを見ている時だとか、そういう時には確かに、二度と戻らない美しい日にいるのではないかと思っていた。
もう10年以上も前のことだ。

「私は今、二度とは戻れない美しい日にいるのではないか」と思えるほどの、日々に対する、もしくは人生に対する丁寧さというのは加速度的に失われていっているのかもしれない。